2004年9月12日  聖霊降臨後第15主日 (C年)


司祭 ペテロ浜屋憲夫

 本日の福音書の前半のたとえ話はとても有名なお話です。たとえに出てくるのが羊なので、何となく可愛い感じがあって、日曜学校とか幼稚園で殊に愛されているお話です。私も幼稚園や日曜学校で数え切れない位このお話をしました。このお話を翻案した「迷子のメー子」という紙芝居もありまして、子ども達は大好きな紙芝居でした。そして、そんな子ども達へのお話では、たいていお話の中心は、99匹を残しても迷子になっている1匹の羊を熱心に助けて下さるイエス様の姿、またそんなイエス様の弱い者、取り残された者への愛に置かれているように思われます。たしか「迷子のメー子」の紙芝居も、そのような筋書きだったような気がしますし、私自身もこのたとえ話は大体そのような読み方をしてきたように思います。

 そしてそのようにこのたとえ話を読むのは別に間違っているとは思わないのですが、最近ある方の説教集を読んでいて、このたとえ話の読み方について、「なるほど!」と思わせられる経験を致しました。学識のある先輩や同僚また後輩の牧師達からそんなことは常識じゃないかお前は牧師のくせに今までそんなことも知らなかったのかと糾弾されるのを覚悟で、私のようにこの読み方を知らない方もまだいらっしゃるのではないかと考え、そんな方々にも私と同様に、「へーっ、なるほど!」という経験をして頂きたく、今日はその読み方を紹介させて頂きたいと思います。

 その読み方というのは、先ずこのたとえ話は、「99匹と1匹」のたとえ話、新共同訳では、「見失った羊のたとえ」となっていますが、この話だけを単独で読むのではなく、15章の1節から32節まで、即ち15章全部を纏めて読む。そのようにして初めてルカの伝えたいことがわかるというのです。この15章には、「見失った羊のたとえ」に続いて、すぐに「無くした銀貨のたとえ」が語られ、そしてまた続けて「放蕩息子のたとえ」が語られています。そしてこの三つの話に共通しているのは、無くなったり、いなくなったりしたものが見つかった時、見つけた人が「一緒に喜んでください」と言っていることであるというのです。そこに目をつけて読まなければいけないというのですね。なるほど、始めの二つのたとえには文字通りのその言葉が出てきますし、放蕩息子のたとえでもいなくなった息子が戻ってきた時、父は直ちに宴会の用意をするように僕たちに命じています。これは、「一緒に喜んで下さい」という意味であります。

 そして、この「一緒に喜んで下さい」という言葉は、「一人の罪人が悔い改めれば天に喜びがある。」という意味であるとイエス様自身が解説をしています。なるほど、一人の人が救われた喜びがその人一人のことに終わらず、まわり中に共鳴して広がっていくのが天の国のあり方であり、あるべき教会のあり方であります。

 ところが、ここにその天の喜びに共鳴しない、共鳴できない人がいるのです。それは、「放蕩息子のたとえ」の終わりに何か付け足されたように描かれている放蕩息子の兄ですね。「放蕩息子のたとえ」だけを読んでいると、弟の話だけで十分に感動的で、この兄の話は別に無くてもよいような気がするのですが、15章全体を見るとこの話こそ15章全体の結論になる話だということがわかってきます。

 それは、15章の一番始めに書かれているのは、徴税人や罪人と仲良くしているイエスに、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言ったファリサイ派の人々や律法学者たちのことだからです。まさしく、この人たちこそ「一緒に喜んでください」と呼びかけても喜んでくれない人、弟が帰って来たのに喜ぶどころか腹をたてた兄、天の喜びに共鳴出来ない人たちなのです。

 この「一緒に喜べない人」こそ15章全体のテーマなのですね。そして、この「一緒に喜べない人」は、もちろんイエスさまの時代のファリサイ人や律法学者たちだけのことではありません、きっとルカの時代の教会にもこのような人々がいたのだと思います。だからこそルカはこの話を書いたのですし、また私達の教会にも確かにいます。確かにいるというよりは、誰もが「一緒に喜べない人」になる可能性を持っています。

 今日の福音書の『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言う言葉を他人事ではなく、自分自身に語りかけられている言葉として味わいたいのです。