2004年10月10日  聖霊降臨後第19主日 (C年)


司祭 ヨハネ 石塚秀司

「神様のみ業を見ることの幸い」

 2000メートル級の山頂に立ったとき、眼下に広がる大自然を見て神様の創造のみ業を思い感動したことがあります。大自然の中で人間とはいかに小さな存在であるか、そして、その創造のみ業の中で生かされているものであるかを改めて考えさせられました。人間の力を誇示するかのようにビルが立ち並び整備された街の中で、日常の慌ただしい生活に流されていると、ついこのことを見失ってしまうのかもしれません。表に現われた出来事や目先のことだけではなく、私たちの生活を支えているもっと大きなものを見つめる心の目を持つことが、人生を豊かにしてくれるものだと思います。
 さて、この日に朗読される福音書(ルカによる福音書17:11−19)は、重い皮膚病を患っている十人の人が癒されるというお話です。
 ある村に立ち寄られた主イエスは、遠く離れた所で叫ぶ人たちの声を耳にします。彼らは近寄ろうともせず、声を張り上げ、「どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫んでいます。当時、重い皮膚病を患うと、律法の規定によって汚れたものとされ、人々の生活の領域から隔離されていました。おそらく、城壁に囲まれた町の外に追いやられ、家族はもちろんのこと、同じ病にある人以外と交わることは禁じられていたでありましょう。肉体的な苦痛だけではなく、汚れた者という偏見の眼差しで見られ、恐れられ、避けられることの精神的苦痛と、まともに療養できる施設すらない隔離された人たちの生活はどんなに悲惨なものであったでしょうか。
 主イエスは、そうした彼らの深い苦しみから叫び声を受け止められ、言葉を掛けられます。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。汚れたものであるかどうかの判定を下さすのは祭司の役目でした。彼らは主の言葉に従って祭司のところ出かけていきます。この主の語られた言葉に唯一の望みを託したに違いありません。そして、「彼らは、そこへ行く途中で清くされた」とあります。
 「清くされた」とは、それまで彼らを苦しめていた肉体的・精神的な苦痛からの解放を意味しています。彼らは再び町の外から人々の日常生活の中に戻り、家族と共に過ごすことが許されます。今まで隔離され、苦痛と絶望に満ちた悲惨な生活を余儀なくされていたことから考えれば、それはどんな大きな喜びであったでしょうか。主の御言葉に従った行動が、この解放と喜びをもたらしことを物語っています。
 しかし、十人の内、自分が癒されたのを知って、神様を賛美しながら主イエスのもとに戻ってきて感謝をささげたのはサマリア人ただ一人でした。これをご覧になって、主イエスは言われました。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」。九人はさっそく家族のもとに帰り、家族と共に喜びを分かち合ったのでしょうか。彼らは主のもとにではなく再び日常へと帰って行ったのでしょう。
 戻ってきたサマリア人は、自らの身に起ったことをただ喜んだだけではありません。その出来事の中に、主の言葉の力と神様の出来事を見たのです。その恵みによって今新たに生かされていることの素晴らしさに心を揺り動かされた。だから、彼は神を賛美し、主の足元にひれ伏し感謝をささげました。そして、主イエスは言われます。「立ち上がって、行きなさい」。その恵みの中で。人々の中へ、家族のもとへ。「あなたの信仰があなたを救った」のだ。
 聖書には、様々な出来事の中に神様の出来事を見つめる人たちのメッセージが書き記されています。そして教会は、人々の生活の只中にあって、そのメッセージを伝えてくれる場であり、創造主のもとに立ち帰り、賛美と感謝をささげる喜びの交わりの場でもあります。そこに、国や民俗を越えてすべての人が招かれ、御言葉に出会い、主イエス・キリストのご復活の命に生かされることを、神様は望んでおられるのです。