2004年10月24日  聖霊降臨後第21主日 (C年)


司祭 パウロ 北山和民

「 大いなる招き」


 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。【ルカ18章】
 「たとえ」(パラボレ)には「二つのものが重なって、一方が隠れて見えない状態」という意味がある。隠れているから「なぞなぞ」と訳されるときもある。
 本主日は、たとえとは思えない在りそうな話であるが、徴税人の義とされた姿に、「昼も夜も叫び求めている(18:7)」祈りをあきらめない神ご自身を重ねている。先週の「やもめと裁判官のたとえ」のやもめのように、神への信頼のうちに「このままで終わってたまるか!」と叫ぶ人たちのことをイエス様は「地上の信仰(18:8)」と言っているようだ。 つまり差別や貧困の中に置かれた人、「小さくされた人々」を通して、神はご自身の憐れみ無しに生きられない人間の姿を示し、鈍感で傲慢な我々を敏感に人の叫びを聞くことのできる生きた人間になるよう招いているのである。そしてわたしたちが祈りという注意力を持てば今や危機的な地球世界から聞こえてくる絶えざる小さな叫びこそ、神の招きが絶えず降り注いでいることのしるしであると教えているのである。 つい先日、発症から半世紀となる水俣病について最高裁判決が示されたことは、日本という「うぬぼれて、他人を見下している人(18:9)」に対する神様の「譬え」、驚くべき招きではないかと思う。しかし50年は長すぎる。
 本日の福音は、善行を否定しているのでも、宗教家の誠実さを批判しているのでもない。ここにあるのは神様の招きの大きさ、裁きまでのゆとりである。 そしてその福音が教えるのは、我々はどんなに社会福祉(本日は社会事業の日)や慈善を立派に行ってもこのファリサイのように神様から義とされることはない。もし義とされることがあるなら、この徴税人のように「胸を打ちながら」心から祈り、この「大いなる招き」が絶えず、ここにも降り注いでいることを人々に現すときだけである。 つまり絶えず祈っているのは我々ではなく、神様なのである。これが現代にとっての「絶えず祈れ(Tテサ5:17)」の本当の秘密ではないだろうか。
そして社会事業にかかわる人たちにとってこの秘密が 「命じられたことを果たしたからといって主人はしもべに感謝するだろうか(ルカ17:9) 」 に続く言葉と詩篇51編の祈りを真実にする。
 わたしたちのこの世界がいかに危ういものであろうと、カルト教団の脅しを超えて、神様はわたしたちに信仰を選び取るゆとりを残してくれている。福音に信頼して絶えず祈り続けよう。
    神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
    打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。 (詩編51:19)