2004年11月14日  聖霊降臨後第23主日 (C年)


司祭 ヨハネ 古賀久幸

「忍耐によって」【ルカによる福音書21:5〜】

 3年前の9月11日。富と資本の象徴であった世界貿易センタービルが数千人という人々を巻き込んで崩れ落ちた。それから、アフガンに爆弾が降り、イラクにミサイルが打ち込まれ何十万人が殺された。イスラエルとパレスチナの憎悪の連鎖は断ち切られることが無いままもつれにもつれている。世界各地で深刻な食糧不足に天災が輪をかけてたくさんの人々が餓死している。国内では地震の活動期が本格化しているようだ。エボラ出血熱、エイズ、狂牛病が静かに広まっている。さらに、地球規模で温暖化が進み今後予想もつかない異常気象現象が起こると予測される。テロとの戦いをスローガンに、世界を「民主化」しようと意気込む人がまたもや人々の指示を受けた。どこにも出口が見えない。
 
イエス様が預言された時とはいつのことだろうか。
 「あなたがたはこれらのものに見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることの無い日が来る。」「わたしの名を名乗るものが大勢現れ、『わたしがそれだ』とか『ときが近づいた』とか言うがついて言ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こると決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病がおこり、恐ろしい現象や著しい徴(しるし)が天に現れる。」(ルカによる福音書21章6節以下)。たしかに、AD70年、エルサレム神殿はイエス様の預言どおりローマ軍に徹底的に破壊されてしまった。しかし、現代のことと読んでもぴったりと当てはまる。われわれの心の中にはこの預言に共振する不安がいつも存在している。そこで、何とか先を見通したいばっかりに、パフォーマンスの派手な指導者を民衆は求めついていく。あるいは今日さえ良ければと刹那的な快楽を追いながら不安を麻痺させようと虚しい営みを続けている。
 
考えてみればいつの時代にも恐ろしい闇は存在し、わたしたちは闇に閉ざされてきた。しかし、主は必ず救いに来られるという確信を持ち続けなさい。そこから生まれる忍耐によって、命を勝ち取りなさいと言われる。
 新潟中越地方を襲った大地震は各地に大きな爪あとを残した。そんな中、ぺしゃんこになった車に閉じ込められた幼い子どもを危険を顧みず救出するレスキュー隊の姿を祈りながら多くの人々は見つめていた。それにしても、漆黒の暗闇をよくも4日間、幼い子どもが耐えつづけられたものだ。いや、大人だったら悲観して持ちこたえられなかったに違いない。お腹がすいたらお母さんが必ずご飯を作ってくれるという安心感の中で日々生きている子どもだからこそ耐えられたのだろう。
 神はわたしたちを捜しつづけておられるという確信は希望となりそこから忍耐は生まれる。そして忍耐は必ず命を勝ち得るのだ。