2005年1月2日  降誕後第2主日 (A年)


執事 サムエル 奥 晋一郎

 本日は少年時代のイエスさまが書かれている箇所(ルカ2:41−52)を見てまいりたいと思います。この箇所でのポイントは、なぜイエスさまが両親に反論し、神殿でわたしが自分の父の家にいるのは当然ではないか、といったということがポイントになると思います。この箇所でイエスさまがいう父とはこの地上の親子関係ではなく、神さまとの間の関係、天におられる父である神さまです。従って、この場面は父である神さまと子である救い主であるイエスさまとの間の関係を語っています。そしてこのことは、イエスさまは神さまの子である救い主であるにもかかわらず、あえて、ナザレ地方の家具大工の家庭の子どもとして、己を低くして人と異ならない人間の姿で生きてこられたことを示しています。そして、人間として、身分の低い家庭で生きていくことにより、一部の人のためではなく、すべての人々のために神さまから遣わされてきたことを覚えることが大切であると思います。そして、さらにイエスさまは後にすべての人の罪を贖うために十字架にかかったことから、わたしたちの悩みや悲しみを解決するためではなく、悩みや悲しみを一緒に負ってくださる方、一緒に歩んで下さる方であると思います。
 新しい年を迎えました。この時期、多くの人が神社仏閣に初詣に出かけ、家内安全、商売繁盛、志望校合格などを願います。しかし、生きていく上で、いつでもどんな時でも思い通りにいくとは限りません。生きていく以上、悩み、苦しみといった場面に遭遇することもあるでしょう。そんな時、もう祈るのをやめたと思ってしまう人もいるかもしれません。しかし、祈りとはお願いするだけではありません。祈りとは「日向ぼっこ」のように神様のあたたかなまなざしを全身に浴びて、その中にそっとたたずむようなものであるとある方が言っています。そして祈りとは、日向ぼっこの中で、苦しい時落ち込んでしまって、どうしようもない時であってもその気持ちを素直にさらけ出すことであると言っています。
 神さまの子であるイエスさまはどのようなときもわたしたちと共に歩んで下さるために、人としてこの世に誕生されました。このことから、どのような時も祈ることを忘れないように過ごしていければと思います。