2005年1月30日  顕現後第4主日 (A年)


司祭 ダビデ 佐保靖幸

山上の説教−福音の宣言

 本日の福音書はマタイによる福音書の『山上の垂訓(または山の上での説教)』と呼ばれている箇所(5〜7章)の最初の部分です。『山上の垂訓』は、イエス・キリストがいろいろな機会に話された教えが、ひとつの大きなまとまりとして集められたもので、信仰によってキリストが結ばれ、神の子・天の国を受け継ぐ者とされた者達が、神のみ心にかなうために実行すべき原理を教えたものであると言われています。
 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(3節)・・・」に始まる本日の箇所には八種類の人々に対する"幸せ"が語られているので、一般に山上の垂訓の八福と言われています。なお、11節は10節「義のために迫害される人々は、幸いである。」の延長詳述であるとされます。
 「心の貧しい人々」とは、直訳では『霊において貧しい人々』ということだそうです(フランシスコ会訳の注)。『霊において貧しい』とはどういう意味でしょうか。天の父である神からのものですから、ここでは聖霊の意味に理解しておいてよいと思います。従って、人間が神の御心にかなう生活をして"幸せ"を得るためには、根本的には神の霊である『聖霊』に支えられ、導かれる必要があることに気づかされ、同時に自分がどれほど聖霊の内在に欠けた者であるかに気づいた、つまり、自分の霊的な貧しさに気づいた者という事でしょう。しかし、本当に霊的に貧しい者とは、実は、真実自分が霊的に貧しい者であっても、イエス・キリストの十字架のあがない(贖い)の血によって、天の国に入れることが約束されているのです。否、そのような意味に霊的に貧しい者であるからこそ、イエス・キリストの十字架の贖いの他に天の国に入れる方法はないのです。
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケT5:16−18)の御言葉は、多くの人に好まれ、よく用いられる聖句です。渡しは『霊』においてこの御言葉に対する自分の実状を振り返るとき、本当に自分が『霊において貧しい』者であることを知らしめられます。それは私の「喜び」「祈り」「感謝」が、とてもとても「いつも」「絶えず」「どんなことにも」からはほど遠く、その時その時の自分の状況や都合や事情などの《理由》によっていることがほとんどだからです。にもかかわらず、否、そんな頼りなく不安定な『霊において貧しい』心の者だからこそ、イエス・キリストは、私のために十字架におかかり下さり、罪や弱さを贖って『天の国』に在ることができるようにしてくださったのです。そして復活され、聖霊を注いで、復活と永遠の命を保証してくださいました。
 このイエス・キリストが語りかけ、約束してくださる八つの『幸い』は、なんと恵み深くありがたいことでしょう。ただただ感謝、アーメンであります。