2005年2月20日  大斎節第2主日 (A年)


司祭 ヨシヤ 立川 裕

「たったひとつの十字架上の献げ物」

 旧約聖書には、新約聖書によって現される主イエスによる救いの出来事を予め告げている物語があります。その一つに、信仰の父アブラハムが、その愛する息子イサクを神への献げ物にするという箇所があります。これは、神の独り子である主イエスが十字架の上で犠牲とされる出来事を予め表されたもののようです。イサクは自分を焼き尽くすための薪とは知らされず、その薪を背負って神が命じる山へと連れてゆかれますが、これは、キリストがゴルゴタの丘へと十字架を背負う場面に対応しています。
 この物語の中で、父アブラハムが息子イサクに刃物を当てるところに至るまでの心の葛藤は相当なものだったでしょう。この時、主のみ使いはアブラハムに「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」と言い、アブラハムは本気で献げ尽くすつもりであったことが認められています。これより以前に神がアブラハムに対して交わした契約は、神に従うならば、彼の子孫は浜辺の砂、星の数のように栄える、というものでした。ですから、ここで年老いてから与えられた一人息子を犠牲とすれば、その神の約束はどうなるのだろう? とアブラハムは考えたはずです。息子のイサクの側から言えば、よもや死に渡されるとは考えてもいなかったはずです。それは「犠牲にする子羊はどこにいるのですか」という言葉からもわかります。しかし、神が備えられる犠牲の子羊とは自分自身であると悟ったのです。父の行動に任せて祭壇の上に載せられる時の無言の服従からわかります。主のみ使いがアブラハムの行動を制止した後、木の茂みから一匹の羊が捕らえられ、イサクの代わりに献げられます。そこでアブラハムはその場所を「主は備えてくださる」と名付け、人々は「主の山に備えあり」と言います。
 私たちの間違いは、「神がきっと備えてくださる」というアブラハムの神に対する信頼とその結果を先読みして楽観的になることです。すなわち、最後には「神さまが何とかしてくださる」と言ってしまう祈りと行いの軽薄さです。確かに、私たちには、逃げ出したくなるほどの試練や困難、病気や圧迫が絶えず付きまとっていますが、そんな時にも必ず神は助けてくださるものだという安易な信仰に留まりがちです。
 自分を捨てて、主イエスに従いなさい、と教えられますが、私たちは「どれだけ」という計算をしてしまいます。どれだけの時間を神さまのために用いるか、どれだけ献金するか、どれだけ礼拝に出席するか、どれだけ奉仕したか・・・。そのように、神は私たちのどれだけしたかに応じて報いてくださるのでしょうか? アブラハムに100人のイサクがいて、その中からどれだけのイサクを献げることができたかという物語ではないのです。たった独りのイサクであり、また、たった独りの主イエスは「どれだけ」と量ることのできない唯一のものでありました。そのかけがえのない命が十字架の上にあったのです。
 「命」や「生活」を捨てるということはとんでもないことに思われますが、自分自身の「命」や「生活」を主なる神に差し出すことは、新しい「命」「生活」に結びつくはずです。