2005年3月6日  大斎節第4主日 (A年)


司祭 イザヤ 浦地洪一

「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

 ヨハネによる福音書9章を、もう一度、自分の聖書で読んでください。
 生まれつき目の見えない人を見ながら、弟子たちがイエスに尋ねました。
 「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
 これに対して、イエスはお答えになりました。
 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と。そして、この盲人の目が見えるようになる奇蹟を行われました。さらに、この出来事が原因で、ファリサイ派の人々、ユダヤ人たち、そしてこの盲人の両親まで巻き込んで、次々と論争が起こりました。
 最後には、ユダヤ人たちはこの盲人を追い出し、ファリサイ派の人々は「われわれも見えないということか」と言いました。しかし、この生まれつき目の見えない人は、「主よ、信じます」と言って、イエスの前にひざまずきました。
 「神の業がこの人に現れるためである」というのは、どういうことでしょうか。
 生まれつき盲人だった人の前に、イエスが現れることによって、ファリサイ派の人々やユダヤ人たちの姿がはっきりと浮かび上がってきました。
 見えると思い、言い張っている人たちには見えていない、見えない人には見えるということが明らかにされるために、この盲人は用いられました。この生まれつきの盲人は、神の業が現されるための器、道具となったことがわかります。
 目が見えないから不幸で、盲人だから罪人だと決めつけ、見えないのだからわかるはずがないと思っているところに問題があります。
 かつて、私は、盲人の方で熱心なクリスチャンの男性に会い、教えられたことがあります。「これから研修会に行きます。」「どんな研修会ですか。」「盲人のクリスチャンが集まる研修会です」とその人は言いました。しばらくいろいろな話をしてから、私は訊きました。「今回のテーマは何ですか」と。すると、その方は「『我ら盲人は晴眼者をいかにして導くか』です」と、さらっと言いました。
 私たち目が見える者は、盲人の手を取って助ける、危なくないように導くのがあたりまえだと思っています。しかし、神さまの前に立った時にはどうでしょうか。盲人も晴眼者もまったく同じですし、むしろ、私たちの方が肉眼でいろいろなものが見えていることが、見えると思っていることが障害になって、神さまのことが見えていないのではないでしょうか。
 「イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」