2005年3月13日  大斎節第5主日 (A年)


司祭 エッサイ 矢萩新一

「死ぬことは、生かされること」

 復活日・イースターまであと2週間と迫って来ました。教会では古くから、イースターに洗礼を受ける習慣があります。イエスの死と復活にあやかり、罪に死んで新しい命に生きようと決心するのが洗礼の大意です。しかし、私達は「死」という出来事には大きな不安と悲しみが伴うことを知っています。身近な家族を亡くす経験は、誰もが避けて通れないことですし、自分自身もいずれは死すべき存在であることも確かです。
 ある方が、若くしてお連れ合いを亡くされました。頼るべきパートナーとのお別れを前にして、どれほど深い悲しみと憤りの中にあったでしょうか。しかしその方が、娘さんとお腹にいる息子さんに向かって語った言葉は、「天国に行けば、また会えるんだから」という気丈な一言でありました。そして、その娘さんが母親と同じ境遇に立たされた時、信仰を持っている人の強さを自分も受け継いでいることに気付かされたと言われます。この娘さん自身も、お連れ合いと弟さんに先立たれ、2人のお嬢さんは病魔に襲われていて、母親である彼女が献身的に付き添われていました。このような境遇にあって、どれだけ憤りを覚え、悲しみのどん底に突き落とされたことでしょうか。しかし、彼女はしっかりと立ち、上を向いて歩いておられます。
 今日の福音書(ヨハネによる福音書11:17−44)は、死んだはずのラザロをイエスが生き返らせたという物語であります。マリアとマルタは兄弟ラザロが重病で瀕死の状態である事をイエスに伝え、何とか死ななくても済むようにと願っていました。しかし、イエスがベタニアに到着されたのは、ラザロが墓に葬られて4日も経っていました。姉妹はイエスに向かって「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と嘆きました。深い悲しみの中にあった姉妹にとって、当然の言葉であったと思います。対するイエスは、あなたの「兄弟は復活する」「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか?」と問い返されました。マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えはしますが、イエスの言葉の真意を理解してはいませんでした。マリアも同じです。するとイエスは、彼女達や一緒に来たユダヤ人達も泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、涙を流されました。イエスが泣いたことは、聖書の中でここにしか記されていません。神の子で救い主・メシアであったイエスも、感情を持ち、暖かい涙を流す人間でありました。イエスは、ラザロの死を悲しんだのと同時に、自らの十字架へと向う運命にも憤りを覚え、悲しまれました。ラザロの死に、自らの死を重ね合わせていたのです。しかし、死の向こうには復活がある事をイエスは示されます。そして、イエスを通して神様の栄光が現されることを、マルタとマリアは目の当たりにします。彼女達の心はラザロとの死別の悲しみと、イエスへの不満で、ある意味死んでいました。その死んだ心をよみがえらせたのは、一緒に泣いて下さった神の子・人間イエスであったことを覚えたいと思います。
 また、このラザロの復活、人に命を与えたという奇跡の物語は、ユダヤ人達にイエスの殺害を決意させ、十字架を準備させたことを忘れてはなりません。人に命を与えるということが、イエスに死をもたらしたのであります。逆にいうと、十字架に命を奪われることによって、人に命を与えて下さったのであります。これ以上に大きな愛の業はありません。常識では考えられない出来事であります。だからこそ、私達が深い悲しみの中で心が死んだ状態にある時にでも、復活することを信じ、上を向いて歩くことができるのではないでしょうか。しかし、私達が「死」という深い悲しみを経験する時、先が真っ暗で、この苦しみには出口が無いのではないかと思ってしまいます。そんな時、無理にその先にある復活に目を向けなさいとは決して言いません。マルタとマリアのように「主よ、もしここにいてくださいましたら、死ななかったでしょうに」と素直に嘆けばいいのではないでしょうか。するとイエスは「復活する」「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか?」と問いかけて下さいます。そして、私達を復活の目撃者として下さいます。死ぬということを通して、神様の栄光は現されるのですから。
 イースター間近、死を恐れずに歩む者とならせて下さいと祈り、洗礼の意味を今一度おもい起こしながら過ごしていきたいと思います。