2005年5月8日  復活節第7主日(昇天後主日) (A年)


司祭 ヨハネ 石塚秀司

「主イエスの熱き祈り」【ヨハネによる福音書17章】

 ヨハネによる福音書17章には、主イエスが十字架に付けられる直前に、お弟子さんたちのために祈られた執り成しの祈りが記されている。イエス・キリストというお方は、何を思い、何を求めておられたかを知りたい人は、訣別の説教といわれる13章から17章の執り成しの祈りにかけて是非読んでみると良い。
 主イエスはこのような言葉で祈り始められた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」。今、まさに時が来た。父なる神様の栄光が表される時が。こう祈られた後に、主はその栄光の道を歩まれた。それはどのような道であったかというと十字架への道であった。
 「十字架に付けろ!」「神の子なら、自分を救ってみろ!」。この罵声と嘲笑の叫び声が渦巻く中を十字架へと歩まれる主イエスのお姿は、人々の目には栄光どころか全くの屈辱と敗北の姿にしか写らなかった。聖書は受難物語でそのことを物語っている。お弟子さんたちも、恐ろしさのあまり姿を隠し、その関係を否定する有様であった。「ああ、これで終わった」、十字架の上で息を引き取られたのを知って、様々な立場にあった人たちがそれぞれの思いからこのように呟いたに違いない。その中には、優越感や安堵感に浸っていた人たちもいたし、反対に失望や絶望感に陥っていた人たちもいた。
 しかし、十字架の死で終わりではなかった。その三日後にイエス・キリストはご復活されたと聖書は信じられない出来事を伝えている。復活のことを聞いていたはずのお弟子さんたちも信じられないでいた。でも、それから2000年後の時代に生きる私たちが確かに確認できる事実がある。十字架の死がすべての終わり、滅びでしかなかったとしたら、その後は何も起こらなかったのではないか。しかし事実は違う。2000年の時が経た今、この日本に生きる私たちにもキリストを信じる信仰の命は生きている。私たちはそのことの証人である。
 使徒言行録の1章8節に、主イエスのご昇天の前に語られた言葉が記されている。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、・・・・地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。この約束の通り、ご昇天の後聖霊が降り、挫折し離れていたはずのお弟子さんたちは再び立ち上がり、迫害を受けながらも力強く十字架の死と復活の出来事を語り始め、教会が生まれ、地中海沿岸から世界へとその波は広がっていったことを使徒言行録は伝えている。そして、地の果てに位置するであろう私たちの所にまでキリストの命は届いている。主のご復活・ご昇天、聖霊の降臨は、ある限られた時代の、限られた地域の、限られた人たちという制約を越えて、どの時代であろうと、どの国や民族であろうと、信じる人すべてが、「神は我々と共におられる」この実感を得ることができる、そうした普遍的な広がりへとつながる節目となる出来事であった。
 ヨハネによる福音書17章11節で、主イエスはこのように祈る。「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」。この17章の執り成しの祈りの中で主イエスは何度も「一つとなるため」という言葉を繰り返す。どんなに強く抱いておられたみ心であろうか。そして、国や民族を超えた広がりと「一つになるため」とが重なり合ってくる。「一つとなる」と言っても、政治やイデオロギーによる統一ではない。そんなものは人間が作り出すものであり限界がある。そうではなくて、この地球上で、創造主である神様に造られ生かされているものとして、この同じ土壌に立って、しかし違いを受け入れ合い共に生きていく愛のシンフォニーである。
 聖フランシスコは素晴らしい祈りの言葉を残している。「神よ、わたしをあなたの平和を実らせるために用いてください。わたしが憎しみのあるところに愛をもたらすことができるように。また、争いのあるところに和解を、分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに真実を、絶望のあるところに希望を、悲しみのあるところに喜びを、暗闇のあるところに光をもたらすことができるように助け導いてください」。本当の平和は、一人ひとりから始まる。一人ひとりの心に灯された愛のともし火から始まる。そのために主は来られ十字架へと歩んでくださった。憎しみや争い、分裂を暗闇を作り出す古き自分に死んで、神様の愛の命に新たに生かされる、よみがえりへの道を示されるために・・・・。
 あなたにも是非イエス・キリストに出会って、その真実と素晴らしさを知ってほしい。教会はそのためにある。素晴らしい出会いのために。