2005年5月15日  聖霊降臨日 (A年)


司祭 サムエル 門脇光禅

「聖霊降臨のお話」【使徒言行録2章1〜13節】

 父と子と聖霊のみ名によって アーメン
 本日は聖霊降臨日(ペンテコステ)の聖書から学びたいと思います。
 十字架に死なれたイエスさまがご復活され大喜びの弟子たちでしたがご昇天してしまいました。「また来る」とは言われたもののそれがいつ来られるのか分からない。当然弟子たちは不安になり熱心に祈っていたときです。お弟子さんたちやその他の大勢に聖霊が降臨したときの様子が記された有名な箇所です。
 キリスト教の神さまは3つのかたちがあります。1つはこの世界をお創りになった創造主なる神さま、2つ目は人間の罪を一手に引き受けて十字架に死んでそして栄光のうちによみがえったイエスさま、3つ目がこの目に見えない聖霊なる神さまです。このかたちの違った3つの神さまが実は同じひとつの神さまであるというのがキリスト教の最も重要な教理のひとつである「三位一体」といいます。ところが日本人は聖霊なる神について理解するのに得意ではないみたいです。自然の中に宿っている精霊なるものと考えてみたり、或いは、特殊な能力をもっている誰かに降(交)霊してくるようなものつまり「アニミズム」や「シャマニズム」といわれるようなものと同じように考えてしまう人々が多いように思われます。
 キリスト教での聖霊とよばれる神さまは神さまと人、また人と人の間を行き来する目に見えない神さまです。そうまるで風のような存在、どこからか吹いてきてどこへか去ってゆく。風は見ることができないし触れることもできない。でも感じることができる。確かに風が吹いているのもわかる。(ヨハネ3:8)
 聖霊は人の心を勇気づけたりあるときは優しく包みこんでくれる力。「神は愛である」(Tヨハネ4:8)「聖霊は神である」ゆえに聖霊=愛という公式が成立するなら「愛」と呼んでも良いかもしれないですね。
 イエスさまは弟子たちに「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20:22)と言われました。また聖霊に満たされたとき弟子たちは大胆に神さまの福音を語っています。(使徒言行録4:31等)イエスさまは聖霊が下りそれを受け聖霊に満たされたとき人は許し愛しあえる人間関係ができるのだと言われたのかも知れません。
 とっても難しいことのように見えるのですが実は神さまのほうから近づいて来てくれるのだから私たちは受けるだけでいいんだと考えれば分かるような気がします。主に感謝。