2005年5月22日  三位一体主日・聖霊降臨後第1主日 (A年)


司祭 パウロ 北山和民

 あなた方は行って、全ての民をわたしの弟子にしなさい。・・・父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・・・わたしは世の終わりまで、いつまでもあなたがたとともにいる。【マタイ28章19】
 今年・A年の聖霊降臨後の主日福音書はマタイを聞きます。 そして本主日はその最終部分です。教会はイエス様の復活の出来事により、「世界的伝道(平和の実現)共同体」へと押し出され、今のわたしたちの教会があるのですが、この「マタイ福音書の教会」にその基礎があるのです。
 わたし達はどのような道筋で、「神は世の終わりまでわたしと共にいる」という信仰に至るのでしょうか。 今年のマタイ福音書を聞いていく中に一人一人がその道、その秘密を見つけることが出来ればすばらしいと思います。しかし、マタイ福音書は「(系図に始まる)イエス様のガリラヤ出自」「異邦人への否定的、差別表現」「律法の保持」といった特徴が強調されていて、初めて読む日本人は戸惑うのではないでしょうか。つまり、イエス様ご自身を「(異邦人に対する)ユダヤ人」と強調したり、「洗礼」を強調することは多様な世界への宣教にマイナスではないのかと考えてしまいます。実はここには人間的次元とは異なるまさに「神の命」が働いているのです。(難しいけれど福音書の特徴は聖書研究で学んでください。)
 ふりかえって、今日本では「憲法第9条の堅持はグローバル化した世界への貢献にマイナスだ。変えるべきだ」という(まるで憲法ではないかのような)世論が強まっています。テロの絶えない世界情勢を見るにつけ、和解への道は(人間的には)絶望的に思えることが多いです。しかし、もしわたし達日本人が上のマタイ福音書をそのまま聞くことが出来るなら、「第9条」は日本の歴史に特別に示された「必ず平和を実現する神はおられるしるし」「神が国家権力(の悔い改めに対して)に与えたゆるし」と受け取れるのではないでしょうか。そしてこの神は現在のパレスチナの地にも生きておられると「宣教」できるのではないでしょうか。わたし達にとって大切なことは、個人・民族・宗教、の多様な歴史文化の違いは「優劣を競ったり、融合するため」ではなく「差異を認め合い、しなやかな主体性を回復するため」にあるという理解を神の言葉から汲み取ることです。そしてその過程には「痛み」が伴うことを知らねばなりません。この痛みと回復の物語こそマタイ福音書ではないかと思うのです。そして「インマヌエル・自分の子を忘れる母がどこにいるか!(イザヤ書)」と預言者を通して叫ぶ神、すなわち(「行きつ戻りつ物語」ならぬ)「永久に絶望にはたどり着けない物語」がここ日本という特定の国、○○教会にも与えられていることにわたし達は驚くのです。 「ただ、ただ感謝・賛美」なのです。この礼拝・信仰の道と、平和・和解の実現に希望を失わないことは「主はいつもわたしと共にいる」ひとつの道であり、分ければそれぞれがちがったものに変質してしまうのです。