2005年5月29日  聖霊降臨後第2主日 (A年)


司祭 バルナバ 小林 聡

「幸せに生きたいと願うすべての人に」

 今日の主日の使徒書朗読では「ローマの信徒への手紙第3章21節から28節」が読まれます。この箇所を何度も読んでいて、ふと浮かんだのが「幸せに生きたいと願うすべての人に」というタイトルでした。
 誰しも幸せに生きたいと願い、日々の中でそんなことも忘れて生きている人が多いのではないでしょうか。今日の聖書箇所はそんなことを思わせてくれます。
 まずこのパウロの手紙が、すべての人へのメッセージであることを覚えたいと思います。22節には区別なくすべての人にと書かれてあります。
 それでは次に、パウロは手紙の中で何を伝えようとしているのかということをみてみると、「神さまの義」を生きるための新しい道を伝えようとしているようです。ここで「神さまの義」という言葉が出てくるのですが、この言葉はギリシャ語のディカイオシュネーという語で、「正義」とか「正しさ」と訳されてきた言葉です。受け取る人によっては自分の正しさに照らし合わせて考えられてきた言葉でもありました。この言葉は人間一人ひとりを大切に思われる神さまが、不当にだれかが抑圧されているのを見て、いたたまれずに行動を起こして解放されるという意味です。そして、神さまの心を行う人たちにも共通して用いられています。しかもこの「義」は、神さまと人々との正しい関係の中で使われている言葉であることを心にとめておきたいと思います。よく社会正義のために生きなければいけないと言われますが、神さまとの関係抜きの「正義」は、「神さまの義」ではないことが分かります。
 では、「神さまの義」を生きるための新しい道とはどんな道なのでしょうか。どうして新しい道が必要なのでしょうか。パウロは23節でこんな風に指摘しています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」。これはどういうことかというと、みんなが神さまとの関係からそれてしまっていて、神さまの輝きを欠いている、というわけです。私はそんなこと知らないよとか、そんな自覚はないなあ、という人が多いと思います。ここで言う罪とは個々人が犯してしまった倫理的、道徳的な罪のことではありません。神さまとの関係のことです。つまり神さまへの方向からずれている、真実な方への道からそれた生き方をしているということなのです。これは私たちの生き方、あり方のとても大切なことがらです。ずれているために、知らず知らずに自分を正当化したり、人を非難するばかりになったり、自分の中の悪い部分を認めようとしなったりするようになります。そういった神さまの輝きを欠いてしまっている生き方をしているとすれば、いくら一生懸命に生き、よいと思うことをしていても本当の幸せから遠のいた生き方になっているかもしれません。
 そこで、パウロは言います。28節「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」。人が神さまとの関係を回復し、「神さまの義」を生きるためには、「信仰」が大切だと言っています。「信仰」とは何でしょうか。先日ある人から、「信仰を持つのが人間のあるべき姿だと思う」と言われました。よく、信仰とは特別熱心な人が持つもので、信仰を持たない人もいると言われますが、パウロが語っている「信仰」とは、人が神さまに解放され生き生きと幸せに生きたいと願う人にとって、必然の事柄のようです。では、この「信仰」についてパウロがどのように言っているのかを見ていきたいと思います。
 「信仰」とは神さまに対する正しい関係を表すものです。しかしただ闇雲に信じる、服従するというのではありません。神さまの真実(確かなこと)に信頼を寄せることです。パウロはイエス・キリストへの信仰こそ、真実からそれている状態から引き戻され、解放された生き方をし、神さまの輝きを放ち、自己満足ではない幸せを生きる者となると言っています。ここで、私たちが大切にしたいことは、「イエス・キリストの信仰」ということです。ギリシャ語本文では「イエス・キリストへの信仰」という翻訳になっていますが、それは「イエス・キリストの真実によって」と言う意味合いがあるのです。つまり、イエス・キリストの生き様を通して、神の栄光があらわされ、信じるに足る、確かなものであるということのゆえに、私たちがイエス・キリストに信頼して生きることが出来るということなのです。これは神さまの一方的な好意のあらわれであって、イエス・キリストの生き様の中に神さまの私たちへの誠実さ、情熱のほとばしりが、満ちあふれていると言ってもいいと思います。
 イエス・キリストの生き様によってわたしたちと神さまとの関係が回復され、私たちが神さまの道を歩めるようにされたということであって、そのことに信頼して歩む生き方こそが「神さまの義」を生きる新しい道であるとパウロは語ります。
 私たちは、自分の義を生きる者ではなくて、神さまの義に向かう生き方をする時に、はじめて幸せな生き方が出来、生かされるようです。神さまはすべての人が幸せに生きて欲しいと、イエス・キリストを通して、神さまと人々との和解と救いの道を示されました。そのような神さまの誠実さに私たちが全身全霊を持って、応答していく生き方が、幸せな生き方につながっていくようです。神さまの栄光の輝きが私たちの喜び、私たちの本当の幸せでありますように。