2005年7月10日  聖霊降臨後第8主日 (A年)


司祭 バルトロマイ 三浦恒久

 私たちが決して誤解してはならないことは、聖書の中心は人間ではなく神であるということです。み言葉を人間中心に理解しようとすれば福音は見出されず、み言葉は人間の信仰・努力を謳歌するものとなってしまいます。み言葉を中心に理解しようとした時に、私たちは福音を見出すことができるのです。
 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のあるものは聞きなさい。」(マタイ13:3−9)
 この「種蒔く人のたとえ」の語っている福音は何でしょうか。「ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」ということでしょうか。決してそうではないと思います。もしそうだとすれば「良い土地」と「そうでない土地」を峻別し、人間中心・人間謳歌の傾向に陥ってしまいます。
 では、このたとえはどのような福音を語っているのでしょうか。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」これがこのたとえが語る福音です。種を蒔く人は、「良い土地」と「そうでない土地」を峻別して種をまくのではありません。場所を選ばず、あまねく種を蒔くのです。
 私が生まれ育った本州最北端の村には教会はありませんでした。私が小学校3年生の頃、どこからともなく宣教師がやって来て、空き地にテントを張り、伝道していたことを今も懐かしく思い出されます。その宣教師を親しみを込めて「アーメンさん」と呼んでいました。私にとってキリスト教徒の初めての出会いでした。あの時の出会いが今日の私の土台となっているように思います。
 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」本州最北端の村に種を蒔いてくださった神に感謝しています。