2005年9月4日  聖霊降臨後第16主日 (A年)


司祭 マーク シュタール

 私は自分の子供たちを無視することはまれだし、叩くことも決してしないが、時折、真剣に怒り、言葉で怒りを表す。しかし、あまりひどくしかった後には、物事が落ち着いたころを見計らって、子供たちに謝るようにしている。それには、二つの理由がある。ひとつは、自分の我慢がきかなかったことに対して本当にすまないと思うからだが、もっと大切な理由は、育ち盛りの子供に、より高いところからの許しが大切であることを感じる力を持ってほしいからだ。子供たちにとっては、何を間違ったのかをちゃんと理解することは難しい。だから余計、大人が謝らなければ、こどもは傷つき、混乱したままになってしまう。それに、心から謝るという行為を学ばせるのに、最もよい方法は、両親に心から謝ってもらう経験をさせるのが一番だと思う。
 今日の聖書は、人間と神様との同じような関係を示しているように思う。親と子との関係、まさにそれではないか。旧約聖書、新約聖書の時代は、2005年の今日に比べて、神様との関係が親子関係のようであるとはっきりと信じられていた時代であった。実際には、この関係は、2005年の今もそう変わらないはずなのにである。
 エゼキエル書では、番人の役割に焦点が当てられていて、それは子供に対する親の役割に似ている。保護者として、子供を守るという本能にも似た役割である。しかし、エゼキエル書では、神様は親以上に深いものを持つことを示してくれている。神様、そしてよい親は、子供を懲らしめようと、あるいは支配しようと、ましてや仕返ししようするものではない。逆に、忠告、教育、許すものである。子供が自らの意志で正しい方向に方向転換するのを見るのは神様にとっても、親にとっても大きな喜びである。
 使徒書では、善き行いのてんこ盛りである。今、いらだっている人、敵対する人がいる人にとっては、ぜひ読んでほしいところである。特に今、私たちにとってとても大切なメッセージである。敵をのろうのでなく、復讐は神の手に委ねなさい。悪によって支配されるのではなく、善によって悪を滅ぼしなさい。「敵」や「悪」という言葉は強烈だが、それを「子供」「怒り」に置き換えて考えれば、ここのメッセージはより強く、そして意味深いものになる。実際、私たちは、あまり敵や悪に出会うことは少ないかもしれないが、子供や怒りにはしょっちゅう向き合わなければならない。
 最後に、福音書を見る。謝ることによって、私たちは多くを得ることはあっても失うものはない。私たちがこの世でする良い行いも悪い行いも、私たちがこの世を去った後々までも、この世に影響を及ぼす。他者と和解することは、神様の喜びで、そのただ中にイエスがおられるのである。私は、ほとんど罪のない、経験の乏しい子供たちに怒りをぶつけることに対して謝るという行為が、神様を喜ばし、イエスが傍らにいらっしゃることを感じる行為であると思いたい。
 主に感謝