2005年10月23日  聖霊降臨後第23主日 (A年)


司祭 ペテロ 浜屋憲夫

 本主日の福音書(マタイによる福音書22:34―46)朗読は、『ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。』という言葉で始まっています。これは、マタイの福音書の流れでは、イエス様が神殿に入られてから、先ず、『祭司長』や『民の長老達』、『ファイリサイ派の人々』がイエス様に議論をふっかけて、逆に言いこめられ、次に『ヘロデ派』の人もこれに加わりイエスに反撃しようとするのですが、またまた逆に言いこめられ、こんどは『サドカイ派』の人がイエス様に議論をふっかけますが、これもまたイエス様に言いこめられてしまったことを受けて書かれています。
 当時のユダヤ社会の指導者達が入れ替わり、立ち替わり、ナザレから出てきた新参者のイエス様に議論をふっかけますが、これまでのところイエス様の圧勝に終っているわけです。そこで、最後に真打ちとして登場するのが本日の福音書朗読に登場する『律法の専門家』ということになります。
 本日の福音書朗読には、二つの別の話が入っていますが、さすがに律法の専門家らしく、二つの話はどちらも聖書解釈の話になっています。これまでの、論争でイエス様の議論に関する鋭さはいやと言うほど見せつけられていますから、今度は、聖書に関する知識で勝負してやろうということのようです。このナザレの田舎者に、当時の聖書の専門家を対決させて、こんどこそはイエス様をこてんぱんにしてやろうという魂胆です。
 勝負は、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」という質問で始まりました。イエス様がこの問いにたいして、答えとしてどんな掟を挙げても、それに対する反論が用意してあったのでしょう。聖書自体の中に矛盾する言葉は沢山ありますから、イエス様がどこか一つの掟を取り上げて答えられたら、ただちにそれに反する言葉を上げることくらいは、律法の専門家には朝飯前のことだったと思われます。
 それに対して、イエス様は見事にこの質問をかわされます。神殿内で行われたこれまでの論争を読みましてもイエス様の議論の上手さ、鋭さは舌を巻くばかりです。イエス様はこう言われたとマタイは書きます。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」これについて、私が常用しています『新共同訳注解』は、この二つの戒めを並べて言ったところがイエス様の独創であると書いています。律法のうちにどれが重要なのかという問題については、当時はポピュラーなテーマで、イエス様の挙げた二つのテーマのうち一つ、一つを挙げていた人はあったかもしれないけど、この二つを同時に挙げた例はあまり無いというのです。そして、この注解者はこの説を補強するために、マタイの本文自体について面白い議論をしています。それは、この律法の専門家は、「どの掟」なのかと「単数」の答えを要求したのに、イエス様は「二つ」の掟を同時に挙げて、しかもこの二つは同じように大事なのだと答えているというのです。これは、とても面白い指摘だと思います。
 これは、その注解者の説ではなく私の考えですが、神を愛することと、人を愛することはある意味で矛盾するのではないかと思います。私達のまわりの普通の人たちを見回してみても、神様の方に向かうようなタイプの人は得てして、人間が嫌いで、反対に人間的なものが大好きな人たちは、あまり神聖なものを好まないものですね。しかし、これはどちらだけでも不十分で、どちらも両立しなければならないことがらです。これは本当は矛盾してはいけないことですね。これをイエス様は、そのまま言われた。そして、この二つの方向を異にする掟を同時に挙げることによって、一つの掟を挙げる単純な答えにたいしてはあらゆる想定解答を用意していた律法の専門も、反論することが出来なかったのだと思うのです。
 そして、二つ目の話でも、イエス様は見事に聖書内にある矛盾した言葉を鋭く挙げて律法の専門家に返答が出来なくしてしまわれます。あざやかとしかいえません。そして、ユダヤの指導者たちは、イエス様には完敗ということになってしまします。そして、続く23章でのイエス様の『律法学者とファリサイ派の人々』にたいする批判は、誠に激烈としか言えません。その批判の結果、イエス様は十字架にまで追いやられてしまわれるのです。