2005年12月4日  降臨節第2主日 (B年)


司祭 パウロ 北山和民

「主の忍耐深さは救い」

 「全能の神よ、全ての心は主に現れ、全ての望みは主に知られ、どのような秘密もみ前に隠れることはありません。」 聖餐式参入の祈り

 20年以上前、わたしが大阪市内で働いていた時によく聞いたこと。不正に取引したとき、「損をするよりよほどいい。まあ、屏風はまっすぐでは立たんと言うのだから・・・」。そして今、ひとりの一級建築士の「ごまかし」の事件は現代社会の深い闇を浮き彫りにしています。自殺者も出たそうです。関係の人たちの苦しみは、罪のない建物利用者だけでなく、経営者や役人、指導者たちへと広がり、いったい誰が責任を取るのかわからなくなっています。
 こういう事件が起こるたびに、わたしたちは冒頭の祈りを思い出さねばならないと思います。聖餐式に参入するとき、この祈りに震え上がるほど正直な人もおられるでしょう。しかしオカルトチックな脅しには注意しましょう。一方社会一般のみならず教会の世界でもいわゆる「検閲的なモラル」が幅を利かせ、暴露することを楽しむ風潮も見逃せません。
 いずれも「神を畏れる」という言葉を勘違いしていることに気づかねばなりません。
 今週の使徒書、ペトロの手紙には「わたし達の主の忍耐深さを、救いと考えなさい(Uペトロ3:15)」とあります。 誰もがいつかは行いや生き方全てにおいて「裁き」を受けます。しかしそれは秘密警察を恐れるようなものではなく、また死刑囚が執行を待つようなものでもありません。 このことはイエス様の出来事全体を「福音」と告白する者なら誰もが確信を持って言えるでしょう。「裁きがある」とは不完全なわたしたちが日々新しく生きるため、行いを修正するための「愛」なのだと。この愛への信頼(full commitment)があってはじめて今の無責任の深刻さを知るのです。終末論はわたしたちが責任主体を自覚し誠実に決断するという行動哲学の一面をもっています。指導者がこの「終末」を生きるときメンバーはリーダーシップとは愛の形であると知るのです。
 教会の現代的な使命のひとつは、あらゆる現場のリーダー達に「目を醒ましていなさい。いつ主なる神が帰ってくるかわからない(マルコ13:33−)」という終末論的なセンス、またその知恵を「配信」(リーダーが手本を示す)することではないかと、今、わたしは考えています。

 「いつくしみ深い神・・・救いの道を備えるために預言者を遣わされました。
・・・罪を捨てる恵みをわたしたちに与え、・・・イエス・キリストの来臨をよろこびをもってむかえることができますように。アーメン」降臨節第2主日特祷より