2005年12月11日  降臨節第3主日 (B年)


司祭 バルナバ 小林 聡

「クリスマス:待つ心」【Tテサロニケ5:16-28】

 イエスさまのお誕生を目前に控えた私たちは、この時をどのように過ごせばいいのでしょうか。待つ心にはいろいろな状態があります。なにげなく待つ心。出来る限り準備して待つ心。待ち焦がれていても立っても居られなくなる待つ心。私ごとの話で申し訳ありませんが、もう一ヶ月近く待ちわびている事柄があります。来年に向けて、新しい手帳をインターネットで購入したのに、在庫待ちで一向に届きません。先日、業者からメールが来て、今日着くらしいと書いてありました。うきうきしながら待っていたのに来ませんでした。よくメールを見ると今日か明日に着くらしいと書いてありました。が、もしかして送れたり着かないこともあるかもしれません。もう待ちくたびれた、という感じがしないでもありません。
 私の手帳待ちのようなエピソードはイエス様の誕生を待ちわびる心、あるいは主イエス・キリストが再び来られる時を待ちわびる心を思う時、なんとも小さなスケールの話しだと思いますが、しかし私にとっては待つとはこんなことなのかなあと思わされる日常的な心の動きなのでした。
 少し長い導入になりましたが、この待つ心についてパウロという人は自分の書いた最も古い手紙(Tテサロニケ)の中で思わずこのように書いています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」これはキリスト教の難しい言葉で「聖化」、すなわち私たちが「聖なる者」となるために必要な事柄としてパウロはそのようにすることを私たちに勧めているのです。「聖なる者」とはイエス様が来られる時のための心構え、あるいは待つ心と言ってもいいと思います。ここで大切なことは「いつも」「絶えず」「どんなことにも」であろうと思います。私は、人間というのは変わりやすく、心も体も変化する生き物だから自分にだけより頼んで生きることの出来る強い人をあまりうらやましいとは思いません。色んな変化の中で、右往左往し周りを振り回す傾向にあるような気がするからです。(ちょっと先入観かもしれませんが)。むしろ、「いつも」「たえず」「どんなことにも」自分が愛され愛することの出来る存在として招かれている、ということを心にとめることの出来る人間でありたいと思っています。
 私の待ち焦がれている手帳が、いつ来ても、私の待つ心が期待と落胆を繰り返しても、その一瞬一瞬が実は大切な時である事をパウロは教えてくれています。パウロの最古の手紙(Tテサロニケ)の結びはとても印象深いです。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」。いつ、どこで、どんな場面に遭遇しても、そこに恵みが用意されていることをパウロは喜びと感謝の祈りを持って私たち伝えてくれています。
 実はクリスマスを待つ心そのものが神様からの恵なのです。この待つ心を通して、人々が出会い、痛みの中で自分を振り返り、受入れ合い、赦し合い、新たな生き方へと導かれるのです。クリスマスを待つ心に、実は不思議な神様の働きがある事を知らず知らずに私たちは体験しているのです。今日、教会の前に設置してあるクリスマス・ツリーに、帰り道の母子が立ち止まってくれて、平和の願いを書いていってくれました。この母子との新しい出会いと言葉のやりとりが私にとってのクリスマス・プレゼントとなりました。この小さな女の子が書いてくれたピース・カードはきっと道行く人に暖かいメッセージを贈ってくれることでしょう。何かを願い、その実現を心のそこから待つことの出来る人々は何と幸せなことでしょうか。