2006年1月1日  主イエス命名の日 (B年)


司祭 ヨハネ 古賀久幸

心に留める

 つい先日、母を天国へおくりました。医学が進歩したとはいえ最期の2、3日は相当の痛みや苦しみが伴ったかと思います。その苦しみと重荷から解放されていく過程を看取り、葬儀の慌しさが過ぎ去った後、ぽっかりと穴のあいたような心の状態です。「悲しいでしょうね」とたくさんの方が優しい言葉を掛けてくださいます。まだちゃんとした返事ができずにそこに立ち止まっている自分を感じます。母の人生、そして突然の病いと死、一人取り残された年老いた父。誰でも経験することなのでしょうが、ただ一連のことを通して神様がわたしに何を語りかけようとされているか一生懸命聞き取ろうと思っています。
 冬の夜空に瞬く星はとっても綺麗ですね。空にちりばめられた星たちは大きさも光度も位置も違い、連携を持って存在しているわけではありませんが、人間の心はそれを星座として天空に繰りひろげられた星々が綴る壮大な物語をイメージすることができるのです。人生もある意味そうかもしれません。偶然にしか思えないような出来事が最後に振り返るとその人の人生の物語のかけがえのないワンシーンであったことが分かるような。
 出産という大事業をなし終えたマリアは突然の訪問者にびっくりしました。野原を越えて息せき切ってやってきた見知らぬ羊飼いたち。しかも、口々に「やはり、天使が言ったとおりだ。救い主が飼い葉桶に寝かされている。この子だ」。旅先で初めて出産を経験した若い夫婦のために数名の人たちが手伝っていたのでしょう。でも、この人たちにとって羊飼いの言うことはまるで信じられないホラ話で不思議に思うのも無理はありません。多分、ほどなく忘れ去れた小さな出来事だったでしょう。しかし、マリアは意味が分からなくても心に留めて思い巡らしていたのです。天使が最初に現れたときも、生後四〇日目のお宮参りでシメオンと言う老人が語ったことも、息子が突然家を出て人々を癒し始めた時も、エルサレムに向うと言った時も、ゴルゴタの丘を血を流しながら十字架を背負って歩いている時も、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めていました。そして、やがて神様の御意志が成就した時、心に留めていたことがらがひとつひとつ星のようにきらめき始めたのです。心に留めて思い巡らす。大切にしたいことです。