2006年1月15日  顕現後第2主日 (B年)


司祭 ヨブ 楠本良招

「時」

 以前であれば、この15日は成人の日でした。ところが、この祭日が変更になり、第2日曜日と月曜日が連休となり、成人の日は月曜日、敬老の日も同様です。しかし、私はどうしても以前の曜日と思ってしまいます。地方では、年末年始の帰省時に合わせて成人式を早めるニュ−スも報道されています。今年こそ良い年の時になるようにと1月1日の主イエス命名の日にお祈りして半月がたちました。今年も教会や幼稚園の行事で時が過ぎるのは早すぎるような気がします。時間を有効に使おうと思いながら、時間に追われ焦る気がします。
ミヒャエル・ユンデの作品の「モモ」を思い出します。時間を使っているようで時間に追いかけられている。今年こそはゆとりのある時となるように心がけたいと願っています。
 1月はまだ初めと思いながら、すぐに終えそうな気がします。「時」には、2通りの言葉があることは良くご存知のことです。「クロノス」と「カイロス」です。普通の時間が過ぎるように時計の時間などを「クロノス」と言います。「カイロス」は時間では計れない永遠の時、神のように歴史を越えた時です。1年の計は「クロノス」の時ですが、「カイロス」は神の時と言えます。
 緑の山々、有田川、広い海とのどかな風景の中、初島聖十字教会で初めての新年を迎えました。毎年、新年礼拝後、和歌山への帰省が日課でしたが、今年はいつでも実家へ行くことが出来るので、新年礼拝のあとゆっくりと過ごすことが出来ました。「クロノス」のゆるやかな時間です。国道の激しい渋滞はなく、車ででかける時もゆとりがあると思っていますが、地域の道が狭いので対向車には苦労します。人と出会えば、お互いに挨拶する良い習慣が残るほっこりした町です。
 さて、今日の福音書は、フィリポとナタナエルの二人の弟子の会話が中心ですが、イエスによって導かれる話です。(ヨハネによる福音書1章43節〜51節)まずフィリポがイエスによって導かれます。フィリポはナタナエルをイエスのもとに連れて行こうとします。彼は友人のナタナエルに伝道し「来て見なさい」「見なさい」と2度誘いかけていますが、ナタナエルは「ナザレから何か良いものがでるだろうか」と不信感をあらわにします。この2人の会話の前から、ナタナエルを知っていたとイエスによって指摘されると、ナタナエルはイエスを「神の子。イスラエルの王」とあっさりと認めています。ナタナエルの変化は何だったのでしょうか。彼は救われる前は寒村のナザレの村のイエスに思い込みと偏見すら持っていたのかも知れません。自分の時「クロノス」の中にどっぷりとつかっていたと思います。
 かなり以前、児童施設にいた時、「たこつぼ」論を議論したことがありました。「たこつぼ」はたこを取るための長細いつぼを海に沈めると、たこがそこに入ると抜け出せなくなると言われています。施設職員は入所児に熱心になり過ぎ、指導と体罰に境がつかなくなり、自分のからに閉じこもってしまう状態を「たこつぼ型」と言います。施設職員はいつも気分転換を図り、リフレシュに心がけるようにと話し合ったことがありました。これも自分の「クロノス」の時の中にあるからだと思います。
 こう言ますと「クロノス」は悪者の代名詞のように聞こえますが、私達の日常の生活時間そのものです。しかし、神によって救われる時は「カイロス」の神の時に移行していくと考えています。
 今年こそ時間に追いかけられないように、神に守られた大切な時を過ごしていきたい。