2006年2月26日  大斎節前主日 (B年)


司祭 ヨシュア 文屋善明

これに聞け【マルコ9:2−9】

1.変容の出来事の意味
 大斎節前主日の福音書に、A年、B年、C年ともに「主イエスの変貌の出来事」が読まれる。それはいったいなぜか。8月6日「主イエス変容日」との関係はどうなっているのか。そのことの一つの答は、福音書における「主イエス変貌の出来事」が置かれている位置、つまり福音書自体はこの出来事をどういう文脈の中に置き、語られているのか、ということにある。いずれの福音書においても、主イエス変容の出来事はいわゆる「主イエスの受難予告と主イエスの弟子としての心構え」が語られ、それに続いて述べられている。つまり、主イエスの受難という将来の出来事に対する弟子たちの姿勢がこの物語の主眼点になっている。従って、大斎節を迎える直前に、この出来事から学ぶことには大きな意味がある。
 まず始めに、簡単にあらすじを確認しておく。前の出来事の 六日の後、イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて、高い山に登られた。彼ら3人より少し前を歩いておられたイエスの姿が突然変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。よく見るとイエスは誰かと一緒に話し合っておられるではないか。どうやら他の2人はエリヤとモーセらしい。ペトロは興奮して3人の話しの中に入り込んで、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言う。このペトロの提案を無視するかのように、雲が現れて彼ら3人を覆い隠したかと思うと、雲の中から声がしてきた。「これはわたしの愛する子。これに聞け」。3人の弟子たちは急いで辺りを見回したが、エリヤとモーセの姿は消え、ただ普段のイエスだけがそこに立って居られた。
 この最後の言葉は印象的である。「当たりには誰も見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」。何という美しい言葉だろう。もうそれで十分ではないか。モーセもいない。エリヤもいない。ただイエスだけが彼らと一緒におられる。神はこれに聞け、と言われる。わたしたちは、ただイエスにだけ目を注ぎ、イエスの言葉だけを聞けばいい。

2.これに聞け
 彼らの耳にまだ「これに聞け」という言葉が残響のように響いているとき、彼らの目の前には栄光に輝くイエスではなく、砂ぼこりに全身包まれ、汗くさい服を着た「いつものイエス」が立っていた。神の言葉は「これに聞け」と言う。このイエスに聞けと言う。弟子たちはいろいろなことを思い起こしたことだろう。
 とくに、六日前の出来事は忘れることはできない。あの時、イエスは何時もと違う真剣な顔で「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後復活することになっている」(8:31)と語られた。それに対して、弟子たち、その中でもとくにペトロもイエスの真剣さに応えるように真剣にイエスをいさめた。あの時、ペトロも真剣であった。ペトロは真剣に反抗した。あの時、主イエスはペトロに対して「サタンよ、引き下がれ」と怒鳴られた。イエスが弟子に対して怒鳴ったということは余程のことである。
 あの時、わたしたちはこのイエスの言葉を聞いているのだろうか。イエスの言葉を素直に受け入れ、聞き従っていたのだろうか。「これに聞け」という言葉は、取りも直さず、この言葉への復帰である。この言葉を受け入れ、聞くところから新しい人生が始まる。
 あの時、イエスがペトロを「サタン、引き下がれ」と叱咤されたとき、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」という言葉が添えられていた。使徒言行録に登場する使徒ペトロの活動の出発点は、この「人間のことを思わず、神のことを思う」という姿勢にあった。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいことか」(使徒言行録4:19)公の席で宣言し、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(同5:29)最高法院の中でにおいて演説をしている。

3.大斎節になすべきこと
 大斎節の課題は、何よりも「主イエスに聞く」ということ、向こうからの働き掛けを待つということ、そのためにはいつでも「聞き従えるような柔軟な心」を準備しなければならない。
 わたしたちが何かをしようとはりきっているときには、わたしたちはその事に心が一杯になり、占領されて、柔軟さを失っている。思い切って、何もしようとしないことが大切である。もっと正確に言うと、「主イエスに聞く」こと以外に何もする必要がないし、むしろしてはならない。そのための特別の修行とか、奉仕活動とかは無用である。ただ、ひたすら「主イエスに聞く」ということ、それが大斎節の課題である。