2006年3月12日  大斎節第2主日 (B年)


司祭 ダニエル 大塚 勝

 今日の福音書は、イエス様が弟子たちに「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と教えられた(マルコ8:31〜)ところからです。これから起こる出来事について、イエス様ご自身がご自分の受難と復活について、初めて予告された個所であります。
 弟子たちがイエス様に抱いていたメシア像は、「常に栄光に満ちて勝利への道を歩まれる姿」でありました。「受難と死を通して復活に達する」ということなど、起こり得るはずがないと思いましたから、イエス様の発言には、大きなショックを受けたことであろうと推測できます。だからこそ、ペトロは、すぐに「わきへお連れして」イエス様を「諫めた」のです。
 「諫める」という行為は、人の言動について「それを止めるように忠告する」こと、あるいは間違った点・良くない点を「改めるように忠告する」ことを意味しますが、この場合のそれは単なる忠告ではありません。ペトロが実際にどんな言葉でイエス様を「いさめた」のかは、わかりませんが、多分、顔色を変えて、怒鳴るように、激しく、厳しく言ったのではないでしょうか。
 イエス様は「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、ペトロを厳しく叱って言われました。ペトロだけではなく「弟子たちを見ながら」です。ペトロを「サタン」と呼ばれています。本来「サタン」という言葉は、「反対者」、「誘惑者」を意味しました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と云ったペトロは、神様がなさることに反対する者、イエス様を「誘惑する者」としての役割を演じていたわけです。
 人間の根本的な罪はその傲慢であるといわれます。私たちは「人間自身」がもっているその傲慢さを理解できても、それを「私自身」の中に見つけること、つまり自分自身の傲慢さにはなかなか気づかないものです。しばしば、他人の言動には批判的になりますが、私たちはペトロと同じように、それ自体が自分の傲慢さであることには気づかないのです。また、自分の思いだけで行動する場合もあります。あたかもそれが最も正しいことだと思い込んで。そういう私たち人間の身勝手さ=傲慢さが、神様のみ業を無意識のうち「妨げる」役割を果たしてはいないでしょうか。例えば、私たち人間の勝手な解釈と行いが、地球環境を破壊したり、世界に不平等をもたらすようなことになってはいないでしょうか。
 大斎節を迎えています。この機会に振り返って考えて見ることが大切ではないでしょうか。