2006年3月19日  大斎節第3主日 (B年)


司祭 マーク シュタール

 降臨節と大斎節、この二つはキリスト教の一番劇的な季節です。クリスマスの前、世界中のあちこちの教会では"Christmas Pagent"をします。きれいな、可愛い物語ですから、ほとんど子供が全部の役割をします。奈良キリスト教会の親愛幼稚園も毎年、年長の子供達が天使のコーラスでクリスマスキャロルを歌いながら、クリスマスページェントをします。一方、大斎節の"Passion"(受難)劇は世界中にあるけど、きれいな、可愛い物語ではないですから、子供達の役割はあまりないです。大斎節の劇的なメインステップは、1.イエスの誘惑2.イエスが弟子達に自分の受難を伝え3.最初のユダヤ教の神殿での対決4.イエスの権威、そしてイエスがメシア5.神の国を説明6.キリストの受難、です。今日は、第3のステップ、ユダヤ教の神殿での対決の歴史的、宗教的側面を説明したいと思います。
 最初、今日の旧約聖書の御言葉は、神様から与えられた十戒です。神様は、自分の慈しみでヘブライ人をエジプトから解放された。でも、その解放は、この物語の「おしまい」ではないです。もっと、他の意味がありました。神様が解放されたという意味は、これからヘブライ人は自分(神)のもの、自分の民になるということ。その時がヘブライ人のユダヤ教、そしてイスラエルという国の出発です。そして、十戒で神様は自分の民の心構えを最初に教えてあげました。ヘブライ人は独自の文化、歴史が長くて、神様から与えられた十戒を含めて、大事な律法がこの時から生まれたのです。
 パウロは、今日の使徒書で同じ、律法についての話をしています。パウロは、十戒だけじゃなくて、全体的にユダヤ教の律法をみて、自分自身の問題を説明しました。パウロは、律法は聖なるもの、正しいことそして非常に良いものと信じました。頭では律法を誉めたたえました。神様の命令も従いたいと思いました。でも、自分の魂の中には他の力が働く。この罪の力は自分の意識より、自分の頭より、自分の心より強い。パウロの問題は私達一人一人の問題と全く一緒です。私達は、正しい道、正しいやり方、正しい生活をよく知っているけど、罪の力は悪い方に引っ張ってるから、私達はパウロみたいに「誰かこの罪深い体から解放してくれ」と思うのです。パウロは何千年前のヘブライ人と同じです。ヘブライ人は、神様によってエジプトから解放されて、そして、神様と新しい関係が結ばれた。パウロはイエス・キリストによって、自分の罪から解放されて、イエスと新しい関係が結ばれた。
 福音書の話は有名な話です。「神殿から商人を追い出す」という話ですけど、英語では"Cleansing the Temple"(神殿を清める)というタイトルです。イエスの受難の劇的な物語で、イエス対ユダヤ教の長老、祭司長、そして律法学者達との勝負になるところです。この対決がなかったら、イエスの受難と復活はなかったでしょう。
 歴史的にこの物語はいろいろな解釈ができます。まず、現実に捕われないことが大事です。たとえば、芸術の解釈が間違うことは昔からありました。ある学者は、イエスの話は良く知ってたけど、最初にエルサレムのユダヤ教の神殿の跡とその博物館に行った時は、すごくびっくりした。この学者は、現場に行ってから、この芸術の解釈が信じられなくなりました。何故なら、神殿の大きさは、スタンドを含めたサッカー場の大きさの12倍だったからです。お祭り、特に過ぎ越し祭には40万人が入ったそうです。という意味は、イエスはお祭りの間、すごく大きなところの小さい部分だけで、そしてやかましい群集の中で「売り買いをしていた人々をみな追い出し、両替え人の台や鳩を売るものの腰かけを倒された」としても、その小さい範囲の人だけにインパクトがあったのです。他の99%の人々は、全然知らない。また、後に書いてある御言葉はおかしいです。「祭司長達や律法学者達はこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群集がみなその教えに打たれていたので、彼等はイエスを恐れたからである」
 私は、この出来事を信じます。でも、四つの福音書に書いてあるように、祭司長達や律法学者達や群集に強烈なインパクトがあったとは信じないです。何でこの出来事と強烈なインパクトがあったことが福音書に書いてありますか?まず、私達も2000年後の今、聖なる神殿や教会に商売人や両替え人がいて、イエスがその場を清めるためにみなを追い出したら、当然ありそうなことだと思うでしょう。ですから、福音書の話も自然に信じました。30年前ごろに、学者達が具体的に2000年前のユダヤ人達の文化や生活を調べてみたら、別の背景が見えてきました。例えば、神殿の目的は創立以来いつも捧げものをする所でしたので、それに必要なものとして、両替えや鳩売り、子羊売りがいたのです。イエスも捧げものが神殿での当然な行いであると知っていた。100%賛成でした。ですから、この追い出す行為は、清める、批判、非難することとは関係ないと思っている学者が多いです。イエスは、単純に劇的に「神の国は近づいた」ということを象徴するパーフォーマンスをしたのです。イエスは自分の受難がすぐ来ると知っていた。そして、弟子達はイエスの受難のことはまだ信じなかったので、イエスは神殿に行った時はもうすぐ新しい時代、新しい国が来ることを教えたかったのでしょう。マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネで復活や聖霊降臨からそれ以前を見たら、イエスが神殿から商人を追い出したことと律法学者がイエスをどのようにして殺そうかと謀ったこととは、話がつながると思います。
 今日の三つの御言葉を見たら、神様は昔、律法で自分の民を定められた。そして、罪深い体に救い主イエス・キリストを与えられた。また、今見たようにイエス様の2000年前の話の理解が深まった。神の国が少しずつ近づいたと思いませんか?人間は、本当に頭が固いですから、時間はすごくかかりましたけど。私達はいろいろな話を聞いたり、活動したり、他の人の為に祈ったりすることで、神の国が皆さんのお陰で世界にも少し近づいて来ると思います。
 主に感謝