2006年4月2日  大斎節第5主日 (B年)


司祭 イザヤ 浦地洪一

一粒の麦

 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ12:24,25)

 主イエスは、福音書の中でたくさんの「たとえ」を語っておられます。私はその数あるたとえの中でも、この「一粒の麦」のたとえは、キリスト教の真髄を言い表した素晴らしい言葉だと思います。
 子どもの頃に、朝顔の種をもらって育てたことがあります。もらった種を大事に、封筒にいれて、机の引き出しにしまいました。種は、どんなに大切に保存しても、机の引き出しにある限り、何年経っても、種のままです。芽も出ませんし、花も咲きません。
 ところが、時期が来て、柔らかい土の中にこの種を蒔き、水をやると、根が生え、芽が出て、葉が生え、茎がのび、そのうちに大きな美しい花を咲かせます。この時、地面の中に蒔かれた種は、腐って、土になり、影も形もありません。種は、死んで朽ちて無くならなければ、種は種のままです。地の中で、朽ちて腐って、種が無くなると、茎や葉が成長して花が咲きます。またその後に何倍もの種を残します。
 主イエスは、十字架の上で死んで、葬られ、よみがえって、すべての人々に永遠の命をお与えになりました。
 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と言われたこの言葉の通り、生きて、死んで、まさに一粒の種になられました。死んでお見せになりました。ほんとうの愛とはこんなものなのですよ。永遠の命とはこのようにして得られるものですよと、言葉だけでなく、私たちに見える姿で生きて、そして死んでお見せになりました。