2006年4月23日  復活後第2主日 (B年)


司祭 ヨシュア 柳原義之

「戸にはみな鍵がかけてあったのに・・・」

 イースターおめでとうございます。舞鶴の教会は少人数ですが、主のご復活の日にはその小さな群れに幼稚園児の家族、ここで挙式された家族、日曜学校の子ども達、転勤先から駆けつけた信徒が集まり、24名の楽しい礼拝と祝会となりました。礼拝の役は鐘鳴らし、ろうそく当番に始まり、聖書朗読は小学生も交えた輪読、前日に色づけた復活日の卵も献金もみな子ども達、信徒の手で分担して献げました。他教会から見れば日頃の礼拝人数以下と思われるかも知れませんが、持ち寄りのパーティで豊かな食卓を囲み、子ども達はうずら卵の「卵探し」に夢中になり、それは楽しいひと時となりました。満腹して会を閉じた後も、引き続き遊びで盛り上げる子ども達につられて、家のこと、子育てのこと、いろんな話をコーヒーを飲みながらたっぷりとすることができました。幼稚園を2つ抱え、雪かきに精を出しながら、発表会、卒園式をそれぞれ2つずつ終えて、「大斎」とは名ばかりになりそうな忙しい日を過ごしてきましたが、今年は特にそんな楽しい時間が流れたことを感謝しています。
 さて、皆が帰った後、携帯電話で数人の方にイースターのお祝いのメールをしました。電話で話せば…、と思いつつ「おめでとう」の言葉に「元気?」と安否を尋ねました。いくつかの返信があり、それぞれ元気にしていることをうれしく思いつつ、返信がなかった友人に「どうしたのだろう?」と不安に思いました。近い人からのメールでその安否を知り少しほっとしましたが、今日、私に与えられた楽しかった日にも、悩みのうちにある人達がいることを再確認させられました。
 今日の福音書にはご復活の日の夕方の話が記されています。弟子達は自分達に降りかかってくるかもしれない出来事に恐れ、「家の戸にみな鍵をかけて」いました。それは物理的にも心理的にも、誰も入ってこないようにするためであり、イエスを失ってただでさえボロボロになった自分をそれ以上壊されなかったのかもしれません。でもそんな固く閉ざした家にイエス様は現れました。「どうしてこんな固く閉ざしているのか?」とか「早く開けろ!」と怒鳴るのでもなく、すぅっと入って来られたのではないかと想像します。「平和があるように」との言葉に加え、手とわき腹を見せられた、とヨハネは証言します。イエス様は「平気だ。なんともない!」と強がって見せられたのではなく、ご自分の傷、すなわち弱さをお見せになりました。
 私たちは自分の弱さを人に見せられないことや見せたくない時があります。弱っているのに強がり、助けて欲しいのに、それを断る時があります。認めたくない罪も、周囲のことや自分の面目のために言い出せないこともあります。でもイエス様はその傷をお見せになりました。8日後のトマスの時も同じです。「あなたの指をあて…、あなたの手を伸ばし…」、さあ、わたしの弱さに触れなさいとイエス様は示して下さいました。
 返ってこなかったメールを1週間たった今も待ち続けていますが、その友人の中で、ご復活のイエス様が必ずその力を与えてくださると信じて待っています。主のご復活の喜びは、その喜びが与えられた人にだけ留まるのではなく、その人からあふれ出ていくものであると思います。「喜べ!」と強要するのではなく、その出来事を自分で信じて喜びに変わるのを待ち続けていくものではないでしょうか。
携帯電話の向こうにいる人の姿は見えません。でも返ってこないメールに、「今は返すことができない」との無言のメッセージを受け取ったような気がします。イエス様はそんな人の心の扉を今も傷ついた手で叩き続け、開くのを待っておられるように思います。
 
 できれば、この手紙、読んで欲しいなぁ…。