2006年4月30日  復活後第3主日 (B年)


司祭 ミカエル 藤原健久

どうしようもない

 聖公会には、年に2回、「断食日」がある。大斎始日と聖金曜日(受苦日)である。断食、と言うからには、全く何も食べないのか、といえばそうではなく、先輩方に聞くところによると、「まともな食事を1食にする」日らしい。これぐらいならできそうな気がして、今年の大斎節は、2日だけでなく、何度か断食してみた。2食抜くぐらい何ともないだろうと思っていたが、意識的に断食してみると、思っていた以上に苦しかった。朝起きた時から空腹感を覚え、その後ずっと、頭の中は「お腹がすいた」で一杯である。1日の内に何度もくじけそうになる。実際に何回かはあきらめて食べてしまった。やっと待望の夕食の時間が来て、一口食べる。さすがにおいしい。けれども、お腹がふくれると、後はいつもの通り、日頃と何も変わらない心持ちになる。断食したからと言って、忍耐強くなるわけでもなく、心が浄められるわけでもなく、信仰的に上昇するわけではない。少なくとも、自覚的には、何の変化もない。
 多分「断食日」とは、何か変化を期待するのではなく、淡々と守るべきものなのだろう。
 「食べる」と言う行為は、人間にとって必要不可欠なものである。誰もが食べる。庶民も聖人も食べる。以前、立派なお坊さんの自叙伝を読んでいると、修行の大変さと共に、日々食事を確保することの大変さに多くのページが費やされていて驚いた。人間はどんなときにでも食べる。楽しいときも食べる、苦しいときも食べる、難しいことを考えているときも、何も考えていないときも、食べる。食べることに理由はない。とにかく食べる。どうしようもなく食べる。
 復活されたイエス様は、弟子達の前に現れ、焼いた魚を食べられたという。食べるという行為はあまりに身近すぎて、栄光ある救い主にふさわしくない行為のような気がする。しかし、これを見ていた弟子達は、恐れから解放され、落ち着きを取り戻したという。私たちと同じように、食事をする救い主。これは、私たち人間のどうしようもない現実のただ中に、復活のイエス様が来てくださると言うことを示しているのであろう。