2006年5月28日  復活後第7主日(昇天後主日) (B年)


司祭 ヨシュア 文屋善明

御 名【ヨハネ17:11c−19】

1.大祭司の祈り
 ヨハネ福音書の第17章は、主イエスが弟子たちのために祈られた最後の祈りであると言われ、また「大祭司の祈り」とも呼ばれるものである。従って、この祈りは、部分に分けて一部だけを取り上げて論じることは慎むべきである。全体をゆっくり読んでも、たった3分足らずで読める。この祈りを理解する最善の方法は、先ず一読し(約3分)、続いて1分間文章全体をじっと眺め、また再読し(約3分)、次ぎに気付いた同じ言葉を拾い出す。たとえば、「御名」とか「世」など。その上で、もう一度全体を通読する(約3分)。以上で、約15分、そうすると必ず何か感じるものがあるはずである。それから後は、各自で思うように分析してもよいし、しなくてもよい。

2.「御名によって」
 この「大祭司の祈り」の中でいくつか重要な点がある。本日は時間の関係もありその中で一つだけを取り上げて共に学びたい。主イエスは「あなたが与えてくださった御名によって彼らを守った」(12節)と語られ、同時に「御名によって彼らを守ってください」(11節)と父なる神に祈っておられる。明らかに、「御名」という言葉が特別な意味あいと機能とを持っていることがわかる。主イエスは「神の名」においてわたしたちを守られた。

3.神の名前
 この祈りの中で、主イエスは「父なる神」に向かって、弟子たちに「あなたの名」を知らせたと報告しておられる。「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます」(26節)。その目的は「わたしに対するあなたの愛が、彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」。これはもう、「秘密を打ち明ける」世界である。神と主イエスとだけが持っている特別な「内密」の世界を弟子たちに打ち明けたという。その内密の関係を示すのが「神の名」である。その「打ち明け」は、弟子たちだけではなく、その後の弟子たち、つまり全てのキリスト者に対する「打ち明け」でもある。わたしたちは、「御名を打ち明けられている!」。
 しかし、本当にわたしたちは「神の名」を知っているのだろうか。祈りというものの本質を考えて見ると、わたしたちは「御名」を知らないでは祈ることが出来ない。祈る相手の名を知らないで祈るのは、祈りではなく、単なる自己の願望の「独り言」である。
 旧約聖書で、モーセが「神の名」を神自身に訊ねたとき、神は「有りて有るもの」という名を明かされた。この時も、「秘密を打ち明ける」情景が描かれている。後に、その名前は「みだりに口にしてはならない、という戒めも付け加えられた。それが「ヤハウエ」という「神聖四文字」と言われているものである。「神の名」とは本来そういうものである。しかし、その「名」は主イエス以前に既に知らされていたことである。
 それでは、主イエスがわたしたちに教えてくれた神の御名とは何か。聖書を詳しく調べてもあまり明白に記されていない。ただ、主イエスご自身が祈っておられる姿と祈りの言葉を注意深く読むと、主イエスは神に対して「聖なる父」(11節)とか、「天におられるわたしたちの父よ」と呼び掛けておられる。これは非常に重要である。主イエスがわたしたちに教えられた神の名とは「父」ないしは「アバ」である。わたしたちは神を「父」と呼びかけて祈る。

4.「あなたの名」から「主イエス・キリストの名」への転換
 ここにキリスト教における祈りについての重要な秘密がある。神の名から「主イエス・キリストの御名」への転換である。この言葉を、付けることによって、父なる神に受け入れられる祈りとなる。その意味では秘密というよりも、むしろ「おまじない」に近いといってもいいかも知れない。神のもとには全世界から様々な祈りが届けられている。仏教徒からの祈りもあり、イスラム教徒からの祈りもある。もちろん、無神論者からの祈りもあるだろう。幼い子どもの無邪気な祈りもあれば、死を前にした老人からの祈りもある。それらすべての祈りが毎日、毎瞬間、神のもとに届けられている。それらの無数の祈りの中で、「主イエス・キリストの名による」祈りは、特別に取り扱われる。主イエスの「大祭司の祈り」は、どうか「主イエス・キリストの御名によって献げられる祈りには特別のご配慮をください」という願いが込められている。主イエス自身がこう言っておられる。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる」(ヨハネ14:13)。これは御子イエス・キリストに従う者の特権である。だからこそ、この特権によって神に祈りを捧げる者は、次の3つのことを常に吟味しなければならない。

 (1)その祈りは御子の名にふさいわしいかどうか、(2)その祈りは御子の名を汚すものでないだろうか、(3)その祈りはわたしと主イエスとの関係を深めるものであるかどうか。
これはこの特権に生きる者、主イエスを愛する者の最低のけじめである。

注:この説教の詳しい<講釈>は下記のブログ参照
  説教集 落ち穂拾い http://blog.goo.ne.jp/ybunya