2006年6月18日  聖霊降臨後第2主日 (B年)


司祭 バルナバ 小林 聡

木と暮らす【マルコ4:26−34、エゼキエル書31:1−6、10−14】

 昔話の中に、鎮守の森がよく出てきます。鎮守という響きは木が人と共に暮らし、人々の生活を長い間見守ってきたという、人間以外の視点が豊かに生きているという感性を感じます。沖縄の昔話にはガジュマルの木に住んでいるキジムナーという木の精の話がありますが、このキジムナーは人間に幸福をもたらすこともありますが、不幸をもたらすこともあり、人間に対するいたずらっぽい行為がキジムナーの特徴のようです。
 この夏公開される映画「ゲド戦記」でも有名な宮崎アニメの映画などにも自然とそこに住む不思議な生き物たちが生き生きと描かれていることは多くの人の知るところでしょう。それらは人間のおごり高ぶりや傲慢さに気づかせたり、共に生きていくことの喜びを教えてくれています。
 旧約聖書には豊かに繁る木のたとえが描かれています。エゼキエル書31章6節「大枝には空のすべての鳥が巣を作り/若枝の下では野のすべての獣が子を産み/多くの国民が皆、その木陰に住んだ。」これはエジプトのファラオの繁栄した姿をあらわしていますが、その反対に、おごり高ぶったエジプトとその仲間たちは、切り倒され、捨てられることになるのです。
 イエスは、繁栄する木のイメージを、人が種を蒔くところから話されます。マルコによる福音書4章30―32節「更に、イエスは言われた。『神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。』」
 種を蒔くところから語るイエスの感性は、聖書の木のイメージが生活に密着したものであることを私たちに伝えてくれるのです。種を蒔くという生活とつながった行為が、時に聖書を読み、ニュースを聞く時に忘れられてしまうことがあります。
 3年前パレスチナ・イスラエルを訪れた時、イスラエル軍によってオリーブの木が根こそぎ抜き取られ切り倒された農家を訪れました。この行為は土地の立ち退きを迫るイスラエルの強権的行為なのですが、その出来事はそこに種を植えた者の思いや、その木と共に暮らしてきた者の思いをも根こそぎにしていく、そんな姿を見た思いがしました。イエスは種を蒔く者の思いになって話されました。それは木の繁りだけを見ている者にとっては気がつかないでいる心の動きかもしれません。イエスは種蒔く者の思いで、旧約の木のイメージを新たにされ、人々に語られたのでした。
 そんなことを思いながら再びエゼキエル書を見てみましょう。31章13節「彼の倒された幹には、空のすべての鳥が住み/若枝のもとには、野のすべての獣がやどる。」ここには自らのおごり高ぶりによって倒された、そのエジプトに支配されていた諸国民(鳥・獣)が自由にエジプトに住み憩う様が描かれています。
 これは木を植えた者(神)の木への深い愛情が、再び鳥や獣達を集め、宿らせた光景なのです。木への愛情は弱り果てていた者達の復活の力となったのです。
 沖縄の開発や基地建設でも多くのガジュマルの木が切り倒され、キジムナーも姿を消したはずです。しかしその木が植えられる時に神様の愛情が注がれていたのであれば、必ず命が宿り、人々が集められ、憩うことになると、今私は確信いたします。木を植える者の注いだ愛情はたとえ木が切り倒されても復活することを聖書は伝えてくれているからです。木と暮らす者の愛情は復活の力をなるのです。