2006年8月13日  聖霊降臨後第10主日 (B年)


司祭 マタイ 西川征士

物騒な天からのパン【ヨハネ6:39〜51】

 私たちは、いつも天から沢山の良い恵みを頂いています。しかし、しばしば天から恐ろしいものが降ってきます。
 今年の梅雨期の長雨は九州や長野県などの多くの地域に甚大な被害を与えました。死者も多数出ましたし、倒壊、流失した家屋や田畑も多数で、それらの被害に遭われた方々には深い同情の念を禁じ得ません。
 中東の天からは、今も爆弾が降ってきて犠牲者が絶えません。怪しげな国のために、日本近海には、天からノドンとかテポドンとか言う忌まわしいミサイルが何発も降ってきました。
 滅多に無いことかも知れませんが、道を歩いていたら、天から大きな看板、コンクリート片、自動車、そして、人間まで降ってきたりします。こんな恐ろしいものは、もう天から降って来ないで欲しいと思います。
 今日の福音書は「天から降(くだ)ってきたパン」(ヨハネ6:41)と言われたことで大事件になりました。イエス様は、御自分が神から遣わされた命の主であることを、エジプト脱出途上のユダヤ人たちに、天からパン(マナ)を与えられた伝説(旧約テキスト)を想起させながらお語りになったのですが、聞いていた人々は大憤慨したのです。
 彼らは言いました。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降ってきた』などと言うのか。」(6:42)。勿論「天から降ってきた」イエス様など、彼らは受け容れることはできませんでした。
 ユダヤ人たちは、天は神様が住まわれる場所であり、しかも神様は唯一のものであると信じていましたから、イエスが「天から降ってきた」ことなど信じられる筈がありません。イエスは一介の「人間」であると思っているのですから、そのイエスを神と同格のお方として受け止める事は絶対にできなかったのです。自分達の信仰の領域まで侵害されたと思ったことでしょう。彼らにとっては、これ以上に無い〈物騒な天からのパン〉だったのです。 ユダヤ人はその〈物騒な天からのパン〉をやがて十字架にかけてしまいます。
 以前にも良く似た出来事がありました。イエス様が故郷ナザレに帰って安息日に会堂で教えておられた時、やはり故郷の人々は憤慨しました。「この人は大工ではないか。・・・姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」(マルコ6:3)と言っているように、彼らはイエス様を天から降って来たお方として受け容れることができなかったのです。
 又、いわゆる「宮潔め」の出来事の後、イエス様が神殿の境内で教えておられた時、祭司長や長老たちが、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」(マタイ21:23)と反発しました。彼らもイエス様の〈天からの権威〉を受け容れることができず、「天から降って来た」お方を信じる事ができなかったのでした。
 何が問題なのでしょうか。はっきり言ってイエス様が〈人であるか、神であるか〉ということが問題になっているのです。つまり、イエスの人性、神性が問題になっています。人間イエスを認めても、神の子イエスを中々認めることができないということです。
 事実福音記者ヨハネの当時、偽キリストや、イエスの神性を否定し、人性を主張する異端者が現れて初代教会の問題になっていました。ヨハネはそのような異端者を論駁する目的で彼の福音書を書きましたから、今日のテキストもそういう事情を踏まえて読むべきでしょう。
 教会歴史上でも、イエス様の人性・神性をめぐって激しい議論が繰り返されましたが、イエス様の〈人であるか、神であるか〉の問題は、いつの時代にも起こることでしょう。そもそも、聖書は〈イエスは誰か〉という問題を私たちに提起しているものだと思います。325年A.Dのニケヤ・カルケドン会議は〈イエスは真に神であり、真に人である。〉と宣言しました。私たちはどう告白したらよいでしょう?