2006年8月20日  聖霊降臨後第11主日 (B年)


執事 サムエル 奥 晋一郎

「イエスさまご自身をいただく(食べる)喜び」【ヨハネ6:53−59】

 聖公会の多くの教会において、毎週日曜日に聖餐式(ミサ)が行われます。聖餐式で、信徒は信仰を持ってパンとぶどう酒を頂きます。これは目に見えない神さまの恵みが目に見える外のしるしとして、イエスさまの体と血として受けます。これはイエスさまが命じて行うようになったものです。
 本日の聖書の箇所において、イエスさまが、イエスさまご自身の体を食べるように、血を飲むように言われています。
 イエスさまは「わたしは命のパンである」「わたしは天から降ったパンである」「私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉である」と言われました。
 イエスさまは、ご自身の肉と血を飲まなければ、あなたがたのうちに命はない、と言われました。この肉と血は、最初に書いたパンとぶどう酒を指します。そして、それらを食べ、飲むことによって、神様の恵み、神様とイエスさまとの交わりを指す、死んでも滅ぶことのない、永遠の命を得ることが出来ると言われます。
 次に、イエスさまは、ご自身が、父である神さまによってこの世に遣わされていること、生かされている存在であると言われます。また、神様によって遣わされている、生かされているイエスさまの体を食べる者は、イエスさまによって生かされると言われます。
 最後にイエスさまは、もう一度、イエスさまご自身が天から下ってきたパンであると言われます。さらに、このパンを食べるものは永遠に生きると言われます。このことは、人々がイエスさまに癒しを求め、救いを求めていたことから、イエスさまが言われたのです。
 この箇所では「食べる」という言葉が何回も登場します。その箇所で多く用いられている、原語の意味は、バリバリ食べる、むしゃむしゃ食べることを意味しています。
 バリバリ、むしゃむしゃと食べるときにはどのような時でしょうか。ゆっくりとお話をしながら、楽しく食べたり飲んだりしているといったゆとりのある時でしょうか。バリバリ食べるとき、むしゃむしゃ食べるときは空腹の状態です。空腹の時には、食べられずに困ってしまい、いらいらし、疲れています。元気もありません。ですから空腹の時に、食べるときには他のことには目もくれず、一心不乱に、一生懸命、熱心に食べています。
 従って、この箇所で、イエスさまは疲れて、元気のないわたしたちに、一心不乱に、一生懸命、熱心になってイエスさまご自身の体を差し出して、体を食べるように、血を飲むようにと言ってくださっています。
 神さまによって遣わされ、生かされているイエスさまのうちにわたしたちがいます。また、疲れている、困っている、苦しんでいる、そんなわたしたちにイエスさまはご自身を食べるように、といってくださっています。それを具体的な形で表されているのが聖餐です。
 聖餐式の最初の箇所で、「主イエス・キリストよ、おいでください」「弟子たちの中に立ち、復活のみ姿を現されたように、わたしたちのうちにもお臨みください。」といい、イエスさまがわたしたちのうちに来てくださることを願います。そして、奉献したパンとぶどう酒が、聖別されてイエスさまの体と血になります。
 イエスさまは疲れている、元気のない私たちに対して、私の体を食べなさい、血を飲みなさいと積極的にイエスさまご自身を差し出してくださっています。だからこそわたしたちは、そのイエスさまの体と血を一生懸命、積極的な気持ちを持って、陪餐を受けます。そのときに神様によって遣わされた、イエスさまが私たち一人ひとりの内に入ってきてくださいます。また、イエスさまが私たち一人ひとりをイエスさまの内に入れてくださり、私たちの一人ひとりに真の喜びと癒しと慰めを与えてくださいます。