2006年8月27日  聖霊降臨後第12主日 (B年)


司祭 ヨハネ 石塚秀司

 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(ヨハネによる福音書第6章66〜68節)

 今週の福音書の60節と66節にこのように書かれています。「弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」。ヨハネによる福音書6章では、「わたしは命のパンである」「天から降って来た生きたパンである」「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしのうちにおり、わたしもまたいつもその人の内にいる」・・・・・・と語られる主イエスの話を聞いた人たちが、つぶやき始め、躓き、主のもとを離れ去って行く様子が述べられています。
 聖書は、主イエスのもとに大勢の人たちが集まり、信じる人たちが増え、その輪が次第に大きくなっていくことを伝える一方で、ここでは反対に、人々が躓き、離れていってその集団がどんどん小さくなっていく有様を伝えています。あの十字架の出来事でもそうでした。皆離れて行きました。12人のお弟子さんたちも、「わたしたちはだれのところに行きましょうか」と言っているペトロでさえ離れて行きました。
 では、離れて行った人たちとは誰のことなのでしょうか。単純にこのように言えるかもしれない。主イエスに出会いながらも途中で挫折した人たち。ある時は主イエスの魅力に引かれながらも、結局は人間的な常識や自分へのこだわりから離れることができなかった人たちです。63節で主イエスは「命を与えるのは"霊"である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と言っておられますが、ここで"肉"というのは、人間的な思い、自分の思いに固執することによって神様との関わりを欠いている、そういう私ども人間の姿を言っていると言えますが、去る者と残る者、この二つの道の分岐点は、"霊"に心を開かれるか、"肉"に留まるかです。
 ここでは残った12人のお弟子さんたちも、この時点で本当に主イエスを理解し確かな信仰を持っていたかというと、必ずしもそうとは言えません。十字架の死へと歩まれる主のお姿を目の当たりにして大きく揺らぎました。そして彼らも離れるという体験をしていきます。しかし、ご復活の主に出会い、聖霊の降臨によって心が開かれた時、神様の愛の命のパンである主に生かされ、彼らは本当の意味で残る者になっていったんだと思います。
 信仰は単なる自分の確信とは違います。人の努力や業によるのでもありません。それは神様のお恵みとお導きによって与えられるものです。聖霊が内側から私たちを捕らえ心の目を開いてくださる。様々なことを通して神様がそのように働きかけてくださっています。
 67節で、多くの人たちが離れ去って行く中で、主イエスは12人のお弟子さんたちにこのように問いかけておられます。「あなたがたも離れて行きたいか」。想像してみてください。この言葉を語っておられる主の眼差しを。それは怒りや裁きに満ちたものでは決してなかったと思います。むしろ、12人のお弟子さんたちや離れて行った人たちへの深い慈しみからのものであり、信じない者ではなく信じる者に、離れる者ではなく留まる者に、立ち帰る者になりなさいという思いが込められた言葉でしょう。主イエスというお方はそういうお方です。神様を離れ、いや見向きもしようとしない日本の人たちにも、主は同じ眼差しと響きを持って語りかけているのではないでしょうか。
 「命のパンであるイエスを食べる」とはどういうことでしょうか。それはイエスのもとに来て、イエスを信じることだと言えます。