2006年9月3日  聖霊降臨後第13主日 (B年)


司祭 クレメント 大岡 創

 今日の福音書にはユダヤ教の「食べ物規定」にまつわるイエスとファリサイ人、律法学者との論争が記されています。当時、外ではどんな汚れを受けるか分からないと考えられていました。手を洗ってから、身を清めてから食事をしなければならない等と細かく規定されていました。そういえば、今でもお葬式の時に見かける「清め塩」もその名残りかもしれません。こころの中では馬鹿馬鹿しいと感じていても受け入れてきました。これら「昔の人の言い伝え」を守ることと神さまの目からすれば何が浄であり何が不浄であるのかとの関係については、イエスさまを快く思わない者のみならず、弟子たちですら充分には理解できていなかったようです。
 伝統が人々を支配する社会においては「規定」に従っていたほうが安心です。従わなければ周りから変わり者扱いされ仲間はずれになるかもしれません。忠実ならばユダヤ民族の一員として固いきずなを育てることになると受け止められてきました。
 自分たちが従うべき「原則」[規定」を生活の中でどのように活かしていけばいいのかをマニュアル化し過ぎたのです。ある時代の必要に応えて定められてものを,そのまま形だけ受け継ごうとすると、非現実的なものになり、本来の精神とはかけ離れてしまうことがあります。
 守らせようとするがゆえに人々の重荷となり、本来の神の掟が教えることを見えなくしてしまう結果になったところに問題がありました。
 このことは人間本来の「罪意識」を指摘しています。「人間の心から悪い思いが出て来る」とあるように、手を洗わないから「罪」なのではなく、人の内側から出てくるもの「貪欲・悪意・ねたみ・傲慢・・・」など神さまに背く内面的な心の動きすべてが「罪」であり「汚れ」の根源であり、この心の動きを清めないと解決にはならないのだとイエスさまは指摘します。
 どんなきれいな手をしていても心まで清くならない・・自分のうちから出てくるものに気をつけなければならないと言うのです。律法的なことに距離を置こうとするけれども、他人には厳しく自分には甘くなりがちな、わたしたち自身が自覚しなければなりません。自分は正しく、悪と汚れは外にあるのだとする態度がわたしたちのまわりを覆い包んでいます。自分自身の本当の姿に向き合いなさいとイエスさまは言われますが、自分のうちにこそ「汚れ」を認めることはとってもつらいことです。簡単な解決法はありません。自分のこころを深く吟味し、自分の醜い姿を直視することからしか始まらないように思います。