2006年9月17日  聖霊降臨後第15主日 (B年)


司祭 マーク シュタール

 旧約聖書でイザヤは「主が私を助ける」ということを強く訴えています。しかし、主の助けとは、イザヤをより強くより賢い弟子にすることではなく、イザヤに特別な洞察力を与えることだったのです。神様の言葉に耳を傾け、神様と民との関係がどのような歴史をたどって来たかを知ることでイザヤは、敵に対峙する力を得たのです。イザヤはもう敵に背を向けることはありませんでした。むしろ、イザヤは敵と対等に立ち、神様の助けを信じ対峙したのです。
 使徒書のヤコブでも、同じテーマを見ることが出来ます。イザヤ書で民が神によって力づけられたのは彼らが神の民だったからだと想像できます。しかし、イザヤは敵に背を向けず対峙すれば、神は傍らにいて下さると言っています。使徒書でのメッセージは信仰と務めです。信仰と務めはともに大切だけれども、それぞれはそれのみでは、成り立たないことを言っています。人間に体と魂の両方が必要なように、信仰も務めもそれを支えるものが必要です。魂の栄養は信仰、体の栄養は務めです。そして、その務めの重要な目的は神の民がみな衣食住で満たされることです。実に、この使徒書のメッセージは私たちに神の国にも大切な社会的なニーズがあることに気づかせてくれます。
 最後に、福音書でマルコは、イエスの奇跡を一つ示してくれています。イエスは民衆と弟子たちの前でいらだちを見せます。イエスはまたもや不治の病の人を癒すように要求されます。弟子たちは、この男の人を治すことが出来ず、今度はイエスが頼まれるのですが、イエスは、いらだち、業を果たすことを躊躇しているようにも見えます。実際、今回は難しいケースだったからです。弟子たちがなぜ自分たちが治せなかったのかを聞かれ、イエスは、「このような場合は、祈るしかない」と言っていることからもわかります。イエスは、信仰のある者には何事も可能であることを示しています。しかし同時に、マルコはイエスの業を用いて、業と信仰は二分できない大切な両輪であることを示しました。そして、私たちクリスチャンはそのことを忘れてはいけないのです。使徒書の最後の節で繰り返されています。「あなたの業ではなく信仰を見せなさい。私は業を通して信仰を見せよう」