2006年9月24日  聖霊降臨後第16主日 (B年)


司祭 エリシャ 富田正通

「上から出た知恵」【ヤコブの手紙3:17】

 聖書をお持ちでない方のために聖書の前後を含めてご紹介しましょう。
 3章16節「ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるのです。」
    17節「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。
        憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」
    18節「義のみは、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるものです。」
 4章 1節「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。
        あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。
     2節「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。
        また、熱望しても手に入いれることができず、争ったり戦ったりします。・・・・」
 これはヤコブという人が書いた書簡ですが、まるでイエス様が今の混乱した世界を見て心を痛めておられるように思えます。大は強国の諸国への介入による戦乱、政府と少数民族との争い、民族・部族間の抗争、身の回りでは日常的に繰り返される犯罪が多発しています。最近は振り込め詐欺に見られるように知能的な悪質犯も多く登場するようになって来ました。
 私は、全ての人々が「上から来た知恵」を用いて生きる世の中になってほしいものだと痛切に願います。しかし、「上から来た知恵」かそうでないかは、人の心根に深く係っています。自分自身でも0を中心として右に17・18節、左に1・2節とすると、時々や場合によって右や左に行き来しますが、心の根底においてどちらに重心があるかが問題です。私はどちらかなと考え込んでしまいます。
 「上から来た」とは、「イエスさま経由」ということです。「神様」でも、私は問題ないと思うのですが、ローマ法王の「聖戦」批判に対して、イスラムからの抗議を受け撤回したと報道がありましたので、使わないでおきます。イエスさまは、ユダヤを支配していたローマへの独立戦争の機運が高まる社会情勢の中で、その指導者に祭り上げようとする思惑に同調せず、自分を処刑しようとする人々を赦し、人々の罪の神の救いを伝えられたのです。このイエスさま経由の知恵は私たちを平和へと、また対立する人たちに和解をもたらせるものです。
 大上段に振りかぶると上記のようになるのでしょう。
 しかし、生活観がまったくありませんね。
 うちのボス(主教様)は小さなことの達成感の積み重ねを強調しておられます。
 それで、ちっさな「上よりの知恵」
 「あたまをつかった小さなおばあさん」の話です。(ホープ・ニューウェル作、松岡享子訳、福音館)
 小さなおばあさんは、とても貧乏でした。でも、頭を使って日々の生活をやりくりしていました。たった一枚のぼろぼろになった毛布を買い換えることができなかった時、頭を使ってガチョウを飼いました。ガチョウの羽で羽根布団を作ったとき、ガチョウが寒いと穴の開いた毛布で上着を作って着せてやりました。冬の夜、寒かろうとガチョウを暖炉のある家に入れ、自分は納屋で羽根布団を掛けて寝ました。
 必要なことは自分で解決し、相手を絶えず思いやり、欲張らず毎日を楽しく・満足して暮らすために使う「知恵」。これを「上から来た知恵」というんでしょうね。