2006年10月8日  聖霊降臨後第18主日 (B年)


司祭 エッサイ 矢萩新一

 今日の福音書は、結婚式や聖婚式の中で最も感動的な言葉である有名な聖句で閉められています。司祭が新しく夫婦となる2人の手を重ね合わせ、ストールでぐるぐると巻き、「神が結び合わされたものを、人は離してはならない。」と宣言する時の一文です。誰もがこの言葉を重く受け止め、そう生きたいと願うのですが、現実はそううまくいくことばかりではありません。
 今ほど数は多くなかったと思いますが、イエスの生きた時代にも離婚の問題はあったようです。ファリサイ派の人々は、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」とイエスを試そうと尋ねました。答えによっては異端者として落とし入れようというファリサイ派の人々の心を見抜き、イエスは「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されます。すると彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と自信満々に答えます。神様がモーセに与えられた十戒を守る為に更に細則を作り、その細則をいかに守るかに関心を寄せるファリサイ派の人々は、逆に神様のご意思から離れているとイエスは指摘されます。イエスは細則ではなく、神様の意思そのものへとさかのぼることを教えられます。
 今日の旧約聖書である創世記には、女が男に従う者としてではなく、彼に合う助ける者、対等なパートナーとして女を創造されたとあります。最初に創造された人(男でも女でもない)は、すべての生き物に名前を付けることになりました。しかし、せっかく名前を付けてその名前を呼んでみても、自分の名前を呼び返してくれません。一方的な関係だけで、助け合う関係、コミュニケーションをとる相手としては相応しくなかったということです。神様以外、他の生き物からは名前を呼んでもらえなかったのです。このように、最初に創造された人は完全ではなく、独りでいるのは良くないから、互いに助け合う者として男と女を創造されたのです。神様は、名前を呼び合い助け合うという恵みを人間に与えて下さいました。この関係は、決して結婚した男女だけに限られたものではなく、すべての人間同士に与えられた恵みであります。その中でも特に、2人が親の保護のもとから離れて一体となる特別な絆として結婚は祝福されているのです。しかし、人間はわがままで、頑固な存在ですので、そう簡単にはいきません。多くの既婚者の方が経験することだと思いますが、性格の不一致、生育環境の違い、生活習慣の違い、それぞれの親との関係など夫婦の間には「こんなはずじゃなかった…」と、様々な思いが絡み合っていきます。そんな時こそ、男女が創造された最初に立ち返り、その与えられた絆、結び合わせて下さった神様のみ心に感謝することを忘れてはならないのです。こんな話を書いている側から夫婦げんかをしている自分もいますが…。
 人間社会の中で決まり事を作っていこうとするとき、だれか力のある人の都合の良い方向へと傾いていくように思います。イエスは、そんな時こそ「最初」に戻っていくこと、誰かの勝手な都合ではなく、神様の意思が明確にされなければならないことを教えて下さっています。別々の両親から生まれ、不思議な結び合わせによって二人が一つとなる結婚が、対等な助け合いを必要とする人間関係の中で、どれだけ祝福されたものであるかを覚えたいと思います。そして、結婚に限らず、すべての人間関係の中で、互いに助け合って生きることが、神様の意思であると言うことを今日の福音書や旧約聖書から学んでいきたいと思います。