2006年11月12日  聖霊降臨後第23主日 (B年)


司祭 セオドラ 池本則子

日本に広がる危険な格差社会

 対照的な律法学者のエゴイズムとやもめの献身。
 長い衣をまとって歩き回り、広場で挨拶されることや会堂・宴会で上席・上座に座ることを望み、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする律法学者。「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」。聖職者にとって耳の痛い話である。
 大勢の金持ちが有り余る中からたくさんの金を賽銭箱に入れていた。一人の貧しいやもめが乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた。
 人間とは何と権威(地位・肩書きなど)や豊かさ(金銭・物質)に弱いのだろう。
 律法学者は指導する立場でありながら、指導される側のことを考えるのではなく、より自分を偉く見せようと傲慢に振舞う。エゴを遺憾なく発揮する。すでに社会的評価はあるのに偉いことを誇示しようとする。権威者がますます強くなり、弱者との格差を広げていく。
 金持ちは生活費に影響しないように有り余る中で献金する。それでも「こんなにしたらもったいないかな。このくらいにしとこうかな」とより少なくすることを考える。貧しい人は生活費の中からしか献金できない。それでも「どうやって切り詰めたら献金できるだろうか。こんなに少なくてもいいだろうか」と少しでも多くできるように工夫する。金持ちと貧しい人の格差は広がる。
 今、日本政府は教育基本法を改悪し、さらに国民を縛る法律をどんどん作り、最終的に憲法を改悪して、国のために命を奉げる(犠牲にする)国民にすることを目論んでいる。教育費の予算で差をつけ、学校の格差を広げようとしている。勉強のできる子とできない子、強者と弱者の格差を広げる。前者に高い評価を与えて権威を持たせ、優遇することで国の方針に従わせようとする。彼らは権威をかさにますますエゴイズムに走り、弱者をいじめ、切捨て、富を増す。一方後者はますます肩身が狭くなり、生活も困難を極め、自暴自棄になる。それを利用して、自衛隊に入り、国のために奉仕すれば、安定した生活が送れる、と甘い誘惑を試みる。言い過ぎかもしれないが、今の状況を見るにつけ、このようなことを想像してしまう。格差社会は恐ろしい。
 生活費全部を入れたやもめは、お金だけでなく生活そのもの、自分の生涯を入れたのだ。それは、神様の救いの業に与かり、参与するために自分の命を喜んで献げる(用いていただく)ことを意味する。それは国の言いなりになって奉げることとは相反する。国への奉仕は個を主張できない。個を埋没させなければならない。神様への奉仕はありのままの自分が受け入れられ、個の存在、命を尊いものとして大切にされる。
 イエス様は強者のエゴによって弱者が作られていく社会に対して警鐘を鳴らす。父なる神様への信頼と十字架の出来事が弱者救済へと導く。