2006年12月3日  降臨節第1主日 (C年)


司祭 パウロ 北山和民

「天の法廷」

     神は神聖な会議の中に立ち、神々(支配者)の間で裁きを行われる
     いつまであなた達は不正に裁き
     神に逆らう者の味方をするのか
     弱者や孤児のため裁きを行い
     苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ
     彼ら(神々)は知ろうとせず、・・・
     地の基はことごとく揺らぐ・・・ 
     わたしは言った「あなたたちは神々なのか・・・」
     しかし、あなたたちも人間として死ぬ。
     神よ立ち上がり、地を裁いて下さい。・・・
                                         (詩篇第82編より)

 「そのとき・・・不法がはびこるので多くの人の愛が冷える。しかし最後まで耐え忍ぶものは救われる。(マタイ24:12)」と言われる、わたしたちの主イエス様の心を黙想する期節を迎えました。
 しかしわたし達の日常は、もはや聖書の時代の人が生きたような「神の国が近づいている」という黙示録的な感性を持ちにくくなっています。
 本主日、選ばれている詩篇82編に心を潜め、降臨節を過ごすための緊張感を少しでも取り戻したいと思います。
 この詩篇は(多くの詩篇がそうであるように)紀元前3世紀の激動(平和的なプトレマイオス王朝支配下からシリアによる凶暴な宗教弾圧、黙示的状況への急変)を背景にして、謙虚に礼拝を守ろうとしてきた人々(ハシデイーム)によって現在の形へとされました。言うまでもなく黙示的世界は現実との相互関係でこそ展開されるもので、ここで言う神々は「神と呼ばれる人間の支配者、現実の会議・法廷」なのです。そして議員や議長たちは「知ろうとせず、理解しないので地の基が揺らぎ、(神としてでなく)人間として死ぬ」と歌われているのです。つい先日教区会に代議員として列席した者として、わたしは本当に戦慄を覚えます。
 そしてこの詩人の確信である「この現実の世界の究極には神の支配がある」という心こそナザレ人イエスの心であり、わたしたちが「待ち望んでいる」心なのです。この詩人は現代人に、敬虔な礼拝が現実の世界を正しく読み解く知恵であると教えてくれます。 今一度詩篇82編を読み、黙想しましょう。必ず神様が立ち上がり、新しい歩みをわたし達の「冷えた愛(マタイ24:12)」の中から創り出してくれるでしょう。