2006年12月17日  降臨節第3主日 (C年)


司祭 サムエル 小林宏治

「悔い改めにふさわしい実を結べ」【ルカによる福音書3:7−18】

 聖書の個所は、小見出しでは「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」となっています。
 先週の個所に続く個所が選ばれています。神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネ、洗礼者ヨハネに降りました。そのヨハネが伝えたのは、罪のゆるしを得させるために悔い改めの洗礼をすることでした。その当時、民衆はメシア(救い主)を待ち望んでいました。ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆が心の中で考えていました。
 そのような中で、ヨハネは皆に向かって言いました。
 「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
 人々は救い主を待ち望んでいました。ヨハネは救い主ではありませんでしたが、救い主が来られるためには、それ相応の準備が必要であると宣べ伝えたのでした。
 救い主が来られると、神の救いに与れることができると安易に思っていた人々にとって、ヨハネの言葉は衝撃的でした。そして、ヨハネに洗礼さえしてもらえば、神の救いに与れると思っていたのでした。ヨハネの厳しい言葉に人々は「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねました。救い主が来られた時に、その救いにふさわしい自分であるにはどうすればよいのかと問いました。まず、ヨハネは人々に、今生きているところで、自分達の生活を振り返らせました。そして、振り返ることの中で問われたのは、貧しい者、弱い者に対する愛の実践でした。具体的な実践、その行為を通して、悔い改めにふさわしい実を結ぶことを求めました。
 ヨハネは、一人一人を神様の前に立たせました。誰も特別な人はいません。ヨハネはその上で、神様から背を向ける生き方ではなく、神様の前で、罪を捨て、神様と共に歩む生き方へと人々を導いたのでした。そのためには、ただ罪を行わないだけでなく、それにふさわしい生き方を問うたのでした。それは、愛を実践する生き方です。自分だけでなく、他の人、弱い立場の人と共に生きることができる神の国にふさわしい生き方です。今まで各自が持っていた特権はそこでは通用しません。神の救いは、それをいただくにふさわしい者に与えられるのです。