2007年3月11日  大斎節第3主日 (C年)


司祭 マーク シュタール

 全能の神よ、どうかあなたを呼び求める僕らの願いをみ心に留め、力あるみ手を差し延べてすべての敵を防いでください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

 今日のみ言葉はおどろくべき話、教訓的な話、なぞめいた話といろいろな話が出てきます。おどろくべき話はモーセが柴の間に燃えあがっている炎を見た【出エジプト記3:1−15】。この柴を見て,モーセは歴史的な任務に出発した。教訓的な話はパウロがコリントの人々に警告しました。彼は不道徳な道に走らないように警告すると同時に、神様はいつも誘惑から安全に逃げる道を用意してくれていることを示してくれました。なぞめいた話は、イエスが悔い改めのメッセージの中ですこし寛容的なトーンを加えているように思います。
 そして、今日のみ言葉の共通のメッセージは特権には限りがあるということです。最初にモーセはとってもユニークな経験をしました。荒れ野の奥へ羊の群れを追って行くときに突然燃えている柴を見た。それは、偶然ではなくて、神様がモーセをとらえて話すためでした。神様がモーセの性格を見極めたいという印象を持ちます。モーセは燃えている柴を見ると、"道をそれて、この不思議な光景を見届けよう"としました。普通の人は怖くて遠い所まで逃げるでしょう。モーセは違う。その瞬間に、神様はモーセを呼んで神様の計画を説明しました。神様は、エジプトにいるユダヤ人のみじめなすがたを聞いて、モーセを彼らの救助の道具に決めました。モーセはもちろん困った。
 "え?僕が?" 神様はモーセを安心させて,そして神の真の証拠のために、自分の名前を教えてあげました。その名前は"私はある"と言われた。モーセはイスラエルの人々を解放するミッシオンのために神様の権威ある名前を使う。神様が重大な任務に唯一の代理者としてモーセを選ばれた。最初は、最高の特権だと思ったかも知れない。だけど、私たちはモーセのその後をよく知っています。彼の役割にはたくさんの困難があって、なん回もモーセはいらだち、ひとりで帰ると言った。このモーセの話で特権の限度は、特権がいつも"責任"を伴うということです。

 使徒書【Iコリント10:1−13】で、パウロはコリントの人々におもに教訓的に書いています。パウロはコリントの人々とイスラエルの人々は同じ歴史を持つと伝えています。神様が自分のみ言葉を(give voice)代弁してもらうためにコリントの人々を選びました。同様に自分の民にユダヤ人を選びました。だけどユダヤ人が神様とその関係を捨てられたように、コリントの人々は神様から与えられた特権を利用する危険がありました。あるユダヤ人が神様に従わなくても自分たちの特権が守られると思って、勝手なことをしました。たとえば不道徳や偶像礼拝や神を試めした。神様の報いは厳しかった:荒れ野に捨てられ,死に,あるいはほろぼされた。パウロがコリントの人々にそのことを思い出すように言った。注意しなかったら、同じ結果と成るよと。 だけど、パウロはコリントの人々に特別の"逃げ道"をあたえました。いろいろの誘惑があるけど、なにも今に始まったことではなく、一人で辛抱することではないです。人は、誘惑や試みの中にあって神様と出会い、神様は必ずそれに打ち勝つ力を与えて下さいます。この使徒書の場合、特権には二面性があります:誘惑と報いです。

 今日の福音書【ルカ13:1−9】では、イエスは他のカリラヤ人がポンテオ・ピラトにひどい仕打ちを受けているという不満を聞いています。イエスは、なぜ彼らがひどい仕打ちを受けているのかと考えます。イエスは問います。一般に考えられる罪とその罪の報いが本当に関係あるのか?特にガリラヤかシロアムではどうだったのか?イエスのこたえは、"NO" でした。しかし、同時に"悔い改め"を勧めます。どういう意味でしょうね。もし,罪と報いがイエスの言うとおりに関係が全くなかったら、なんで悔い改めをしなければならないでしょうか?
 イエスはこの話でまた"Radical Revelation" (過激な啓示)を与えます。この啓示は2000年後の今でも、まだ理解しがたいです。
 神様は不完全な世を作られました。この世は危険もあり,自由意志もあり、そして苦しみ、あい、憎しみ、美しいものもあります。良い人が長生きするわけではないし,罪人が早死にするわけでも、凄惨な死を遂げるわけでもない。私たちはいつ死ぬか分からないから,それぞれ今からその備えをしないといけない。そして,一番大切な備えは悔い改めです。私たちは今から自分の罪を悔い改め,神様が神の国に招いてくださる準備をしたいと思います。
 そのメッセージを伝えようと,イエスはいちじくの木のたとえ話をされました。この木は3年間実がぜんぜんならなかった。この話では、神様がご主人、そしてイエスがいちじくの木に実をならせる最後のチャンスを与えられた園丁です。私たちはそのいちじくの木です。園丁イエス様がいくら優しく世話をしてくれても、私たちが実をならせなければ,つまり,注意を払いイエスの愛に応えなければ、私たちは切り倒される。特権とは守ってもらうという意味ではないです。特権をあたえられているということは、神様の御心に注意を払い、神様との関係を大切にすることです。

 主に感謝