2007年3月25日  大斎節第5主日 (C年)


司祭 エッサイ 矢萩新一

十字架はわたしたちの生きる力【ルカによる福音書20章9節−19節】

 イエスは十字架への道を歩む為に、子ロバに乗ってエルサレムへ入城されました。
 今週の福音書は、そのエルサレムで人々に語った「たとえ話」です。イエスはご自分がこれから受けようとしている十字架の出来事、復活の出来事を人々に示そうとしました。今日の「ぶどう園と農夫」のたとえ話を私たちの生活の場に置き換えてみますと、「ぶどう園」は私たちの日常の生活、「主人」は神さま、「農夫たち」は人間である私たち、「僕たち」は神さまのみ心を伝えようとするものとして捉えることができると思います。「長い旅」に主人が出たとありますが、神さまと人間が造り出してきた長い歴史を意味します。
 神さまは今日に至るまで、たくさんの預言者たちを遣わし、ぶどう園の手入れをして、豊かな実りの収穫を期待してきました。しかし、人間は自己中心でわがままな心をなかなか捨てきれず、自分で作ったものの収益は、自分がすべて独占したいと思ってしまいます。そこで、神さまは分かち合う心、優しい心を取り戻すようにと、ご自分の愛する息子であるイエスを遣わすことにしました。しかし、農夫は跡取りならば尚更、相続財産を奪われないようにぶどう園の外に放り出して殺してしまいます。人間のねたみの為にイエスは殺されます。イエスはこのような頑なな心、人をねたむ心を持ち続ける限り、ぶどう園を相続することは出来ないと人々に語ります。
 そして、このことをなかなか理解できない人々を慈しみの眼差しで見つめ、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」という聖書の言葉を理解するようにと言われました。「家を建てる者」とは、ぶどう園の農夫のことであり、神さまのみ心を伝えるべき宗教的な指導者たちのことです。使い物にならないと判断され、家作りが「捨てた石」とはイエスのことであり、律法学者や祭司長たちに排斥されて捨てられ、十字架につけられて殺されるご自分のことを示しています。「隅の親石」とは、家を支える最も大切な土台となる石のことです。人々から捨てられた石が、現在にまで続くキリスト教の基礎を作る土台となることを意味しています。
 今日の福音書は、十字架に向かって歩まれたイエスが自らの死をもって人間的な死を滅ぼし、復活の勝利を得、隅の親石となられたことを思い起こさせます。殺され、捨てられる死に方は誰もが経験したくはないものです。しかし、イエスは自ら進んで、神さまの計画に従ってその苦難の道を選ばれました。イエスの死から復活へと至る道の最も象徴的なものは「十字架」です。教会に掲げられた十字架は、イエスのように苦難を喜んで受け入れ、人々の幸せの為に自らを奉げた生き方を象徴するものです。そして私達の負うべき十字架は、自分自身の高慢さ、罪深さ、弱さです。私達はイエスの十字架を通して、復活の命に与る者であることを覚えたいと思います。絶望だと思われることの中に希望を見いだしていくのがキリスト者ではないでしょうか。神さまの目から見て、隅の親石となれる人生を目指し、生かされていきたいと思います。