2007年4月22日  復活節第3主日 (C年)

 

司祭 ミカエル 藤原健久

祝福される過去【ヨハネ21:1−14】

 大変美しい物語である。湖のほとりで、イエス様と弟子達が見つめ合い、再び出会えた喜びをかみしめている。イエス様は朝食を用意してくださる。弟子達は食事に力付けられ、新たな未来へと旅立つ。
 復活は、新たな始まりと言える。古い自分に死に、新しい自分に生まれ、未来を切り開いてゆく。未来は現在、そして過去とつながっている。過去があるからこそ、未来はある。当然の事ながら、じつはなかなか認められない、受け入れられない事実である。
 わたしたちの過去は決して楽しいものばかりではない。失敗もした、間違いも犯した。思い出すと恥ずかしいものもある。ばれないように必死になって隠しているものもある。できることなら、こんな忌まわしい過去とは関係なしに、輝かしい未来が開かれていって欲しい。
 弟子達の未来は、確かに、過去とつながっていた。イエス様が割かれたパンと魚、それはかつて5000人の人々を養われた過去を思い起こすものである。あの時にも弟子達は、現実の困難に途方に暮れ、いらだち、イエス様に逆らっていた。最も著しい変化を見せたのはパウロである。かつては熱心に教会を迫害していた過去は、「イエスこそ神」を命を賭けて宣べ伝える生き方に変化する。どのように大きく変化しようと、過去があってこその現在であり、未来である。
 イエス様の復活を信じるものは、新たに未来を切り開く力を得る。そして同時に、自分の過去をも祝福してもらえる。過去の恥ずかしさ、罪深さを主は担ってくださり、過去と未来をつなげてくださる。
 弟子達にとって十字架は、イエス様を裏切ったという最も忌まわしい過去を思い出させる象徴だった。それを教会は信仰のシンボルとした。ここに、復活の信仰により新たな未来を切り開いた教会の姿を見ることができる。