2007年4月29日  復活節第4主日 (C年)

 

司祭 ペテロ 浜屋憲夫

 本年の復活節の使徒書は、ずっとヨハネの黙示録から取られています。私は、この選択がとても好きで毎週楽しみにヨハネの黙示録の朗読を聞いています。
 復活節の聖餐式日課は、他の季節とすこし選ばれ方が違っていまして、先ず、第1朗読の選択の第1オプションが、他の季節のように「旧約聖書」ではなく、「使徒言行録」になっています。勿論、第2オプションとして旧約聖書も選択できるようになっているのですが。そして、第2朗読の使徒書は、A年はペトロの第一の手紙、B年はヨハネの第一の手紙、C年はヨハネの黙示録から連続して朗読されるように指定されています。
 復活節であっても第1朗読に旧約聖書を選ばれる牧師さんもいらっしゃるとは思うのですが、私はこの復活節の第1朗読に使徒言行録が読まれるのが、やはりとても気に入っていまして、自分の教会では復活節の第1朗読には必ず、「使徒言行録」を選んでいます。復活節という喜ばしい季節に、よみがえりのイエス様から、許しと慰め、希望と力を与えられ、絶望の淵から引きあげられ、以前とは打って変わった姿で新しい人生を生き、元気に活躍する弟子達の活躍の物語を聞くのが嬉しいからです。
 ヨハネの黙示録の朗読については、私はこの書物に関して元々は、ちょっと苦手の書物でした。私は新約聖書の文書の中では、どちらかというと聖パウロの手紙のような、論理的に切れ味の良い文章の方が好きで、このヨハネの黙示録のような、おどろおどろしいイメージを延々と記述するようなスタイルの文書は好みではなかったのです。
 しかし、ある時に森紀旦主教さんの「主日の御言葉―教会歴・聖餐式日課・特祷」という本を読んでいて、復活節の使徒書に選ばれている三つの書物(A年:ペトロの第一の手紙、B年:ヨハネの第一の手紙、C年:ヨハネの黙示録)の選択については、共通した理由があること、即ち、この三つの書物は共に、洗礼、聖餐、礼拝という初代教会にあって実際に行われていた礼拝の内容に触れているところが多いのであるということを学んで、なるほどと思い、また、殊にヨハネの黙示録がイエス様の御復活を最終的に表現し、また私たちがイエス様の御復活の力に預かる時と場としての礼拝について語る書物として、復活節の朗読聖書に選ばれたのであることを知ってから、私のヨハネの黙示録にたいする偏見は、すっかり無くなってしまい、却って、とても好きな書物になってしまったのです。
 森主教さんの説明によりますと、この黙示録の色んな箇所の中に初代教会の礼拝の姿を彷彿とさせるところがあるという事なのです。そしてまた、こんな風にも書いていらっしゃいます。『この書は、キリスト教の礼拝が持つ重要な事実、すなわちキリストの最終的な来臨と天における宴の祝福を想起(思い起こさせる)させる書であり、復活節の朗読にふさわしいものです。』。そしてまた、実際に選ばれて各主日に朗読される部分は、殆どが天上での礼拝の場面であることを指摘しておられるのも印象的です。
 私は、「復活」ということは、決してイースターの日の出来事だけを言うのではなく、「復活」のことこそキリスト教のアルファーでありオメガ、キリスト教信仰のすべてを射程に収める深く、広い事柄であり、それは大きな川の流れに喩えられるようなものであるといつも思っています。そしてその大きな川の流れの終着点としての宇宙的賛美の姿が、この黙示録に描かれているのだと思って読みますと、このヨハネの黙示録が、それまでとは全く違って見えてきたのでした。
 私達がこのヨハネの黙示録を復活節に読む意義は、このような壮大な宇宙的礼拝の姿を読み味わいながら、私達自身の礼拝もまたこの主の御復活の究極の姿としての宇宙的礼拝に直接つながるものだということを確認し、確信することにあるのではないかと思うのです。私達が毎週お捧げする礼拝こそ、私達が御復活のイエス様に出会う第一の時と場所なのだということを深く確認したいと思うのです。