2007年5月6日  復活節第5主日 (C年)

 

司祭 ヨハネ 井田 泉

アーメン【ヨハネ黙示録19:1、4−9】

 紀元1世紀末、ローマ帝国ドミティアヌス皇帝の時代、教会は大きな問題に直面していました。ローマ皇帝を神として礼拝するように強制されたのです。「主にしてわれらの神」──これが皇帝ドミティアヌスの称号でした。
 キリスト教徒の多くはこれを拒み、迫害を受けることになりました。ヨハネの黙示録はそのような時代に、困難のうちにある信徒を励ますために書かれた一種の秘密文書と言われます。著者ヨハネ自身が迫害を受け、捕らえられて、エーゲ海のパトモスという島に幽閉されていたのです。
 ある主日のこと、彼は神の霊に満たされ、天上の礼拝を目撃します。24人の長老たちが玉座に着いておられる方の前にひれ伏してこう祈っていました。
 「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。」黙示録4:11
 主にしてわれらの神! 世界を創造し、独り子を人類の救いのために遣わされたこの方こそ、その称号を受ける唯一の方なのです。いかに権力を持とうと人間にすぎない皇帝は、そのような者ではありえません。
 天上の礼拝は次第に高まり、「アーメン、ハレルヤ」の合唱がこだまします。

 「アーメン」は「ほんとうに」「確かにそのとおり」という意味です。

 アーメンは、イエスさまよりはるかにさかのぼる、イスラエルの古い誓いの言葉です。「真理」「真実」「確実」の意味を持つヘブライ語「エメト」から来ているそうです。
 旧約聖書・申命記第27章でモーセは次のように言っています。
 「『隣人との地境を動かす者は呪われる。』民は皆、『アーメン』と言わねばならない。」
 「『盲人を道に迷わせる者は呪われる。』民は皆、『アーメン』と言わねばならない。」
 「『寄留者、孤児、寡婦の権利をゆがめる者は呪われる。』民は皆、『アーメン』と言わねばならない。」
 「呪われる」などという言葉が出てくることに戸惑われる方もあるでしょうが、これは弱い立場の人を守り抜こうとされる神の情熱の反映なのです。「アーメン」と唱えるとき、そこには人の命がかかっていたのです。
 詩編第41編の作者はこう歌います。
 「いかに幸いなことでしょう、弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき、主はその人を逃れさせてくださいます。」
 「主をたたえよ、イスラエルの神を、世々とこしえに。アーメン、アーメン。」

 人が神に向かってアーメンと祈り、唱えるばかりではありません。神は人を支え導こうとして「ほんとうに」「確かに」真実をもって立ち続け、働き続けて来られました。紀元前6世紀のある預言者はこう語ります。
 「この地で祝福される人は、真実の神(原文は「アーメンの神」)によって祝福され、この地で誓う人は真実の神(アーメンの神)によって誓う。」イザヤ65:16

 神が人を愛されるその愛の真実と確かさを体現しておられたイエスさまは、ぜひとも聞いてほしい大事なことを言うとき、こう言われました。「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」(たとえばヨハネ1:51。新共同訳では「はっきり言っておく」と訳されています)。

 パトモス島のヨハネは、神の霊に満たされたとき、主イエスの声を聞きました。
 「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。『わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。』」黙示録3:14−16

 私たちは今、皇帝礼拝を強制されてはいません。しかし学校現場において、信仰的良心から「君が代」強制に抵抗して迫害を受けている人々がいることを忘れてはなりません。

 「アーメン」と唱えるとき、弱いものを守り抜こうとされる神の真実と情熱に対し、私たちも真実と情熱をもって答える思いをこめたいと願います。