2007年6月3日  三位一体主日・聖霊降臨後第1主日 (C年)

 

司祭 パウロ 北山和民

祈りはどこから?

 アドベントからわたし達はイエス様についての「学び」が強調された礼拝生活を続けてきました。そしてこれからの半年は、聖霊を受けて私たち自身の振る舞いがどうあるべきかが強調される期節になります。
 礼拝生活が基盤であることは言うまでもありませんが、今回はわたし達の日々の仕事や人付き合いの中での「祈りの心」をめぐって思いを潜めたいと思います。
 「永遠にいます全能の神よ、あなたは僕らに恵みを与え、まことの信仰をもって、栄光ある三位一体の神をあがめることができるようにしてくださいました。どうかこの信仰に堅く立って生き、すべての災いに打ち勝つことができますように、父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン」(三位一体主日の特祷)
 三位一体の神への信仰告白はイエス様の十字架すなわち「愛」によって支えられている信仰です。つまり「神は愛であろうとされている」、あなたを救うために父なる神、イエス・キリストとしての子なる神、風のように命を動かす聖霊なる神となった。この救いのダイナミズムを信頼するのです。神が神であることを捨てた、論理的には整っていない信仰、宗教の神にも馴染まない、にもかかわらず「ひとつ」の神。いわばイエス様のような自由さをまとった神と言えると思います。ですからわたし達は神の方から「祈られ、守られている」存在なのです。
 日々の出来事の中で「どう祈ったらよいのか?」「祈祷書で唱えるが、わたしの祈りは偽善だ」「主の祈りで『わたしも人をゆるします』がひっかかる」という経験をされたことはないでしょうか? 祈りに「自我」が入っているのです。
 そんなとき、この「わたしのために神は三位一体(愛)となられた」ということを思い出してください。つまりあなたが何かを願い祈るのではなく、神様のほうから祈りは届けられていると想像するのです。
 そしてこのことが「殺し合いをやめない」「愛しても成就しない」悲しく不完全なわたし達への計り知れぬ「神のあわれみ」のしるしとなるのです。具体的には「主に感謝」「あわれみたまえ主よ」と(念仏のように)短く口をつく祈りのことです。
 口から「ああ、主よ…」と出たとき、神のあわれみは確かに来ているのです。祈るのではなく、祈らせていただきましょう。これが「信仰に堅く立つ」ということです。
 「あなた方の天の父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存知なのだ。だからこう祈りなさい…」(マタイ福音書6章6節)