2007年7月22日  聖霊降臨後第8主日 (C年)

 

執事 アンナ 三木メイ

「必要なことはただ一つだけである」【ルカによる福音書10:38−42】

 このマルタとマリアの物語は、短いエピソードであるにもかかわらず、聖書を読む多くの人々(特に女性たち)の心に深い印象を与えてきました。それは、イエス様のお話に聞き入っているマリアの姿にも、お客のもてなしのためにせわしく働くマルタの姿にも、日常の自分自身を重ねてみることができるからでしょう。殊に女性は、毎日家族の食事の世話などでせわしなく働き、お客さまが来れば快くもてなすということを当然の役割として求められてきました。家事やもてなしがどのくらいうまくできるか、それがその人が賢い女性かどうかを測るバロメーターであり、女性の存在価値を決定する重要な要素と見なされてきました。そういう性別役割意識は現代社会の中にも色濃く残っていますが、古代のユダヤ社会では、さらに強固な役割意識があったと思われます。ですから、マルタの言葉「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようおっしゃってください」というのは、いわば性別役割を果たすことを要求する社会を代表するような発言だったとも言えます。
しかしイエス様は、もてなしのために必死になっているマルタに配慮しながらも、彼女の言葉を退けます。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」これは、何を意味する言葉だったのでしょうか。マリアが選んだ方というのは、「主の足もとに座って」イエス様の話に聞き入るという行為です。この「足もとに座って」という部分の原語は、パウロが教育をガマリエル「のもとで」受けた(使徒言行録22:3)という箇所と同じ言葉が使用されているので、「弟子となって」という意味に解釈することができます。ユダヤ教のラビの弟子になるのは、伝統的に男性に限られていました。しかし、イエス様はそれにもかかわらず女性であるマリアに弟子としてそこに存在することを許された、というよりもイエス様の弟子となってみ言葉に耳を傾けながら生きることこそがただ一つの「必要なこと」だと語られているのではないでしょうか。そして、マルタに対しても伝統的な役割分業意識から解放されてイエス様の弟子として生きるよう、招いておられるのではないでしょうか。
わたしたちは、現代社会の中でさまざまな役割を担いながら、それが順調に果たせるか思い悩み、心乱しながら日々生活しています。しかし、多忙な日々においても、本当に必要なことは、神様の呼びかける声に耳を傾けてそれに応答しながら生きる、という主なる神様との恵み深い交わりを大切にすることだ、ということをいつも心に覚えておきましょう。