2007年8月5日  聖霊降臨後第10主日 (C年)

 

司祭 テモテ 宮嶋 眞

 今週の聖書の箇所は、現代の私たちに、そのまま当てはまるような事件です。
 遺産相続でトラブルにおちいった人が、イエスのもとに来て訴えたのです。
 「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」と、、、
 イエス様の答えは明確でした。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
 この夏、研修で長崎市へ行った帰りに、市の西北に位置する外海(そとめ)地方の出津(しつ)の町を訪ねました。そこには、江戸末期に日本を訪れ、以後、終世長崎と外海の町を愛し続けた、フランス人神父マルコ=マリ・ド・ロッツ神父(通称ド・ロ神父)の歩みの一端をたどろうとしたのです。彼は、フランスのノルマンディー地方の裕福な貴族の家に生まれましたが、28歳のとき、東洋の国日本に赴いて宣教し、神がゆるすなら、殉教しようとさえ思っていたようです。当時彼の学んだパリ外国宣教会は、東南アジア伝道のための宣教師を育てることを目的としていたのです。日本での26聖人殉教(注1)の話も伝えられていて、彼の宣教の熱心がさらに駆り立てられていたと想像されます。
 彼が、日本に出発するに当たって、父親は多額の金を渡したと言われます。一方、母親も24万フラン(当時の下町暮らしの青年の年間の生活費が650フランといわれたから、現在の金額では10〜20億円くらいの値打ちはあったものと思われます)をわたしました。また、ド・ロ神父が勤務していた教会の炊事婦は、老後のためにと蓄えていたお金500フランを日本のためにとド・ロ神父に手渡しました。ド・ロ神父は、自分の老後のためにとって起きなさいと炊事婦を説得したが、彼女は頑として聞きませんでした。心打たれたド・ロ神父は彼女のことを一生忘れなかったという。彼女にとっても、冨も出世もない、困難な日本に旅立とうとするド・ロ神父の志に、心を強くゆすぶられる体験であったようです。
 ド・ロ神父は来日後1914年(大正3年)に74歳でなくなるまで、一度もフランスに帰ることなく長崎と出津の貧しい人々のために霊的にも、また、経済的にも援助を惜しみませんでした。教会堂の建設、様々な日本語の教理の本の印刷をはじめ、授産場、孤児院の建設、学校の開校、青年教育所の設置、医療活動、救助院の建設、いわし網工場の建設、製粉所開設(ド・ロソーメンの製作)、飢饉の救済、マカロニ工場建設、など、貧しい村人たちが、豊かに生き生きと生きることができるように、様々な豊かなアイディアで発想し、それを実現していったのです。そのためには莫大な費用が要りました。また、作った施設の維持管理にもたくさんの費用がかかりました。それを彼は自分のために備えられた多額のお金から惜しげもなく支出してまかないました。
 その結果、出津の村は霊的にも、経済的にも豊かな(決して金持ちになったわけではありませんが)むらとなり、ド・ロ神父は村人から、本当の父親のように愛し慕われたと言います。
 充実した人生を送るためには、神と人との愛のつながりを生きること。そのために自分の冨を用いることの出来る人こそ最も幸せな人と言えるでしょう。
 ド・ロ神父はそうした稀有な存在であったと言えます。彼はイエス様の精神を見事に生ききった、そして多くの豊かな実りを受け取った祝福された人でした。

注1)日本26聖人殉教
1597年2月5日【西暦】(慶長元年12月19日【和暦】)、豊臣秀吉のキリスト教弾圧により、長崎西坂で26人のキリスト教徒が処刑された。殉教したのはペトロ・バプチスタ神父ら計26人で、この26人は1862年にローマ教皇ピウス9世によって聖人に列せられた。

 

※『注1)』の中で年号の間違いがあるとのご指摘がありましたので訂正させていただきます。(2008年5月22日)