2007年8月19日  聖霊降臨後第12主日 (C年)

 

執事 サムエル 奥晋一郎

「温かい見守りの中で囲まれ、信仰生活を続ける」


ヘブライ人への手紙 第12章1節−2節
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥もいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座にお座りになったのです。」

 今回は、第1節の「わたしたちもまた、このようにおびただしい、証人の群れに囲まれている」という言葉にことに注目し、思い巡らしてみましょう。
 最初に「証人」という言葉に注目します。この「証人」とは神、イエスに出会い、業に触れて、そのことを大切にし続ける人です。具体例として、ヨハネによる福音書第9章に登場するイエスに癒され、目が見えるようになった、生まれつき目の見えない人の箇所があります。
 生まれつき目の見えない人はイエスに癒され、目が見えるようになりました。癒された日は安息日でした。安息日はお休みの日、神を礼拝するための日として定められていました。しかし、人々は後に、安息日にしてはならないことを定める禁止事項を作ったのです。そこには安息日に、病気の治療も禁止されていました。しかし、イエスはこのことを神の本来の趣旨に反していると考えました。そこで、安息日に生まれつき目の見えない人を癒され、目が見えるようにされたのです。
 そこで、律法の厳格な実行にこそ救いがあると信じるファリサイ派の人たちはイエスが安息日に違反行為を行ったとして糾弾しようとしました。しかし、目が見えるようになった人は「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」(33節)と言いました。そして、彼はファリサイ派の人たちから外に追い出されてしまったのです。排除されたのです。彼は再び、イエスに出会い「主よ、信じます。」といってイエスの前で跪いたのでした。彼こそ、イエスに出会い、業に触れ、大切にし続けた人、「証人」です。
 また、ヘブライ人への手紙第11章17節以下の箇所に登場する旧約聖書の登場人物も、神に出会い、神の業に触れて、出会いと業を大切にし続けた人たちでした。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ギデオン、ダビデ、サムエルおよびその他の預言者です。彼らは神を大切にし、信じたゆえに迫害もされました。それでも、神の出会いと業を大切にし続けた、「証人」です。
 次に「群れ」という言葉に注目します。この「群れ」という言葉は、新約聖書が書かれた言葉であるギリシア語で「雲」を意味する言葉です。マタイによる福音書17章5節、イエスの変容、イエスの姿が変わる箇所に登場する、モーセとエリヤが現れ、光り輝く雲が弟子たちを覆うという箇所があります。
 最後に「囲む」という言葉に注目します。「囲む」という言葉は、マルコによる福音書第14章62節、イエスがイスカリオテのユダに裏切られ、逮捕された後、最高法院で裁判を受けている箇所でも用いられています。この箇所で大祭司がイエスに「お前はメシアなのか。」と言われた後にイエスは「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」といいます。イエスが再び来られる日、再臨の日には天の雲に囲まれて来るというのです。実は、天の雲に囲まれて現れてくださるイエスは私たちを囲むように、雲に乗って現れてくださるのです。
 ですから、わたしたちはモーセ、エリヤおよび旧約聖書の預言者および、神様、イエスに従った「証人」に温かく見守られ、囲まれているのです。そして何よりも、イエスが私たちを温かく、見守って囲んでくださっています。だからこそ、私たちはイエスを見つめながら、自らの定められた競走を走り抜く、すなわち、皆さんそれぞれの信仰生活を続けていくことができるのです。
 教会で礼拝をおささげするのは、一人ではありません。皆さんと共に、聖卓を、十字架を、イエスを囲んで一緒に礼拝をおささげしています。そして、祈祷書176ページ聖餐式の感謝聖別祷で司祭が「天の全会衆とともに、み名をあがめさせてください。」と唱えます。また、祈祷書169ページの代祷においても逝去者のためにお祈りしています。この世で生命を終え、天国に昇られた方々も、イエスご自身、神、イエスに従った大勢の証人と同じように、わたしたちを温かく囲んでくださり、見守ってくださり、礼拝を行っているのです。
 信仰生活は決して、一人ぼっちの歩みではありません。時として孤独を感じる時があったとしても、決して孤独ではないのです。神、イエス、旧約聖書および新約聖書の登場人物といった大勢の証人および、教会のメンバー、多くの逝去者が、わたしたち一人ひとりを温かい励ましの中で囲んでくださっています。そして、この出会いに感謝し、彼らと共に礼拝をおささげし、祈りあい、助けあい、励ましあいながら、わたしたちはこれからも共に信仰生活を続けていくことができるのです。