2007年9月16日  聖霊降臨後第16主日 (C年)

 

司祭 マーク シュタール

迷える子羊

 今日の聖書の箇所は旧約聖書からは、モーゼが神様と山上で出会う場面、新約聖書からはイエス様が徴税人や罪人と共に食事をされる話と迷える子羊の話です。
 モーゼは今日だったら、すばらしい弁護士になったのではないかと思います。モーゼは神様から神の民のための法をもらうために山に登ります。その登山はとても時間がかかりました。人々はモーゼがなかなか帰ってこないのでやきもきします。そこで、人々はモーゼの弟アーロンに、黄金の子牛を作ってくれるように頼みます。黄金の子牛にお祈りをささげるのですが、黄金の子牛は彼らの独自の宗教の神を象徴するものでした。人々は自分たちの土地を遠く離れていたので、せめて自分たちになじみのある信仰を求めていたのでしょう。しかし、彼らは、自分たちの新しい神を拝むにつれ、だんだんモーゼに対して不満を募らせます。何故、恐らく死ぬだろうとわかっていて自分たちをエジプトから連れ出したのかと。神様は、神の民に何が起きているのかを見てひどく怒りました。神様はモーゼに言います。「あなたの人々のために山から降りなさい。貴方がエジプトから連れ出し、迷わせた人々だから。」
 よく読むと、少し誤解があるように見えます。もともと、モーゼは神様の言葉に従って、神の民を解放し、約束の地に連れて行くことになったのに、神様はここでは失敗をモーゼのせいにしています。神様はさらに、この迷える人々を火あぶりにすると言います。しかし、その代わり、モーゼだけは忠誠だったので、全能の神が良い業を施すと言うのです。
 それを聞いて、モーゼは今日の優秀な弁護士がしそうなことをするのです。アブラハムやヤコブがしたようにモーゼは神様と問答をします。モーゼは神様に、エジプト人がどんなことを言っているかを思い起こさせます。「イスラエルの神はすばらしい土地から彼らを連れ出し、険しい山々で死に追いやる。なんともったいないことをするのか。」と。
 モーゼはさらに、神様に直接言います。「激しい怒りを沈め、あなたの人々に対する悪事を改めよ。あなたがアブラハム、イサク、イスラエルに対してした約束を思い出せ。彼らの子孫を増やし、新しい家に至る道を守るという約束を。」(言い換えれば、この人々は行く道を見失っている。彼らには許しと導きが必要なのだと)そして、なんと神様自身が悔い改められたのです。ご自身の民にしようといていた悪事を。弁護士モーゼはこの訴訟に勝ったのです。イスラエルの人々は迷える子羊となったが、神様は約束どおり、モーゼをリーダーとして彼らをカナンの地へと導いたのです。
 ルカによる福音書では、イエスは罪深いと思われている人々と一緒に食事をします。自己欺瞞的なパリサイ人からはとても信じられないことでした。彼らがイエスを非難すると、イエスは100頭の羊を飼っていた羊飼いが1頭を失うたとえ話をします。羊飼いは残りの99頭を置いて見失った1頭を探しに行き、見つけると大喜びします。パリサイ人には、罪びととは関わったり、接したりしてはならないという律法まであったので、この話は理解しがたいものでした。
 私たちの主は、よき羊飼いのように99人の義とされる人々をも喜び、神様の愛を約束してくださるが、はぐれてしまったはみ出し者をも見つけ出し、同じように愛を約束してくださるのです。なんという希望でしょう。迷える罪深い子羊の具体例がパウロ自身です。 使徒パウロのテモテへの第一の手紙の中でパウロは「彼は以前、神の冒涜者で迫害者、そしてイエスに対して侮辱的であったが、後に許され、布教活動に加えられた。」と言っています。パウロは、一度は迷ったが確かに見出されたのです。
私たちも時に自分の思いや願いを恥じたり、良くないとわかっている行動をしたりして、迷える子羊になった気分になります。イエス様は、これは誰にでもあることだとご存知です。そういう時、イエス様は手を差し伸べ、愛を持って私たちを導き、正しい道に戻してくださいます。私たちは、その愛の業を見逃さないようにしなければなりません。神様の豊かな愛を時として私たちは必要としているにもかかわらず、拒否してはいないでしょうか。
 神様は、荒野でさまよう神の民を許しました。ひとつの命がさまよい、見出され、再び群れに加えられることに大きな喜びがあるのです。しかし、ここに忠告もあります。聖書には勝手にさまよって好き勝手なことをしていいとは書いてありません。誰でもが陥ってしまうように、もし、さまよったときには、神様の愛によってまた群れに加えていただけるということです。
 これらのみ言葉は、私たちが聖餐に招かれるとき、主が共に食卓を囲んでくださることを伝えています。うれしいことです。私たちは、迷える子羊だったのに、見出され、許されて群れに再び加えられました。それは、私たちがさらに、まだ神様を知らない人々に福音を述べ伝えるためでもあるのです。そういう意味で、聖餐の度に私たちは神様の御心を行うために強められているのです。