2007年9月30日  聖霊降臨後第18主日 (C年)

 

司祭 エッサイ 矢萩新一

「友だち100人できるかな」【ルカ16:19〜31】

 今日の福音書は、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちと、ラザロという貧しい人のたとえ話です。この物語を読んで、陰府ってそんなところなんだぁとか、神さまは貧しい人の味方なんだぁと、自分の身辺を見回していませんでしょうか?
 私たちは毎週の礼拝の中で、「神さまのお恵みがすべての人々の上にありますように」と代祷をおささげしています。これは自分自身への関心ではなく、隣人への関心が必要になってきます。隣の人が何を必要としているのかと、いつもアンテナをはって生活していなければこの祈りはできません。今日の金持ちとラザロの話もそういう視点で読みたいと思います。
 生前、自宅の門前に横たわるできものだらけのラザロには何の関心も寄せなかった金持ちは、死後、陰府からアブラハムと宴席にいるラザロを見つけ、憐れんでくださいと懇願しますが、聞き入れられません。金持ちとラザロは生前とはまったく逆の関係になってしまいます。金持ちが陰府でさいなまれることになった理由は、ラザロへの無関心さ、今さえよければ、自分さえよければという生き方でありました。
 ある調査で、日本人と韓国人と中国人とアメリカ人の高校生に「21世紀は希望のある社会になると思いますか?」という質問をしたところ、韓国とアメリカは6割、中国では9割が「はい」と答え、日本の高校生でそう答えたのは3割しかいなかったそうです。また、「将来のことより、今を楽しむことが大切ですか?」という質問に対しては、韓国と中国は3割しか「はい」と答えず、アメリカでは6割、日本では9割が「そうそう、今が楽しければいいんだ」と答えたそうです。日本人は貯蓄が大好きで、平均的な核家族で2400万円もへそくりがあるそうです。失業率が3%という厳しい経済状況の中で、お金は将来の保険なので怖くて使えない現実があるのかも知れません。一方、世界の規模で見ますと、先進国というカテゴリーの中で世界全体の80%のエネルギーを浪費し、国内で自給できない6割の食料を輸入して、たくさん余らせて捨てているのが日本の現状でもあります。
 私たちは先ず、毎週の祈りの中で、世界中のラザロのことを覚えてお祈りをささげていることを自覚したいと思います。そして、自分への関心はたくさんあっても、隣人への関心が少なすぎることを心に刻まなければなりません。そこから、何ができるのだろうかと考え、行動できたら素敵だと思います。
 私の1億分の1の声は小さすぎるかもしれません。しかし、それが0.1パーセントの日本のキリスト者の声、世界では30%を越えるキリスト教徒の声となっていけば、世界は変わっていくのではないでしょうか。
 今日の福音書のたとえ話から、「主の平和」と握手を交わせる友だちを何人作っていけるか、どれだけ隣人に関心を寄せていけるのかが問われているのだと思います。
 蛇足ですが、今年、教区宣教局の教育部で、「友だち100人できるかな」という密かなテーマをもって様々な活動を展開しました。すでに「ぽこぽこ」企画や各部門のキャンプで140名の関わり生まれています。もちろんすべての人に深い関わりを持つことはできませんが、そこで「平和」について考える、神さまのことを一緒に考える機会を持てたということはとっても意味のあることだと改めて思わされています。私たちの後に続く子どもたちが、自分さえよければなんて思いを抱かないように、人との関わりの大切さをこれからも伝え続けていきたいと思います。