2007年10月7日  聖霊降臨後第19主日 (C年)

 

司祭 ヨシュア 柳原義之

 「主は生きておられます。」この証言は聖書の中にたくさん出てきます。父なる神様は目に見えず、いまだ誰も目にしたことがありません。いつも言葉をもって人に話しかけ、その神の言葉を受け取れる人に思いを伝え、さらに神さまを信じる人々に伝えてきました。
 人間には、目に見えないものを信じることがなかなかできないという弱さを持っています。アダムが食べてはいけないという実をヘビから受け取ったのも、モーセが山から降りてこないので、アロンが民衆の要求に応えて金の子牛を作ってしまったのも、そんな弱さから出てきたことだと思います。
 それゆえ、神様が生きていること、神様の言葉が実現することが本当だということも、いつも聖書の中に出てくる人たちも半信半疑だったように思います。でも、神様の言葉が実現するのを目の当たりにした人々は、「主は生きておられる」と告白するのです。
 今週の旧約聖書のみ言葉は、今の私たち京都教区の者にとって「主は生きておられ、このみ言葉を与えてくださった」と言えます。言葉は紀元前600年ごろの預言者ハバククの見た幻によりますが、2千数百年の時を超えて今の私たちに示された言葉です。
 ハバククは新バビロニア帝国が興りカルデア人たちが暴虐をふるう様を嘆きますが、その原因は何よりも自分達の国の支配者、神様の言葉を伝え、仕えるものの腐敗にあることに気付きます。律法や正義はもはや通じず、悪い者、力のある者が気ままに振舞い、弱いもの正しい者が虐げられる様を神様に訴えます。その上に神様が興されたとはいえ、異国の民が来て民衆をさらに苦しめる現実にハバククの心は張り裂けそうになったことでしょう。
 ただ、神様はそのカルデア人も「風のように来て、過ぎ去る存在」であり、「彼らは罪に定められる」と言われます。その理由は彼らが「自分の力を神としたからだ」ということでした。「自分の力を神とする」ことは世の為政者によく見られることです。最近もそのように振舞う人たちが「私たちは悪魔をやっつけるのだ」と言い、それにへつらう国の指導者がテレビに出て、ぺこぺこしている様子がテレビに映し出されています。
 また、国の指導者でなくても自分勝手な「正義」を振りかざして「悪」と闘っているように見せながら、実は「自分の手柄」を自慢したいだけの人もいることも私たちの周辺におられるようです。
 ハバククは見張り場に立って、神様が自分の嘆きや訴えにどのように答えを返されるかを見ようとしました。
 神様は「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ」と命じられます。心が崩れ折れそうになる人々に向かっては「神に従う人は信仰によって生きる」ということ、5つの「災いだ」という言葉をもって悪しき者達に警告されます。
 私たちは神様が見えないので、そして神様の言葉の実現が遅くなる時、疲れを感じ、神様はもしかしたらおられないのではないか、と恐れを抱き、そして、水面下で息をこらしているかのような息苦しさを感じてしまいます。でも、ハバククはこう聞き取りました。「定められた時のためにひとつの幻があるからだ。それは終りの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ遅くなっても待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」と。
 主よ、来てください。あなたの裁きを待ち望んでいます。早く来てください。心からお待ちしています。
そして、悲しむ者に慰めと癒しと生きる力と、新たな人生を与えてください。
 主よ、主の家族である教会を絶えることのない恵みのうちにお守りください。